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No.07 AHN MIKA

AHN MIKA(あん・みか)

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ファッションモデル

インタビュー INTERVIEW/美しい人 No.07 AHN MIKA 「目鼻立ちがきれいなだけが美人じゃない。一緒にいて心地のいい、清々しい人が美人だって、幼い頃母が教えてくれたんです」 Photo:三宅詩朗/ Text:森綾/ Edtior:鈴木ちづる

No.07 AHN MIKA

― モデルとしてはもちろんのこと、今やタレントとしても大活躍のAHN MIKAさんですが、もともとモデルになられたのはどういういきさつからだったのですか。
AHN 実はモデルにたどり着くまで、とっても長い道のりがありまして。まず3歳のときに、ダンボール工場の階段から落ちて顔に大ケガをしたんです。その後遺症で唇がめくれあがる表情グセがついてしまい、母は本当に気にかけてくれました。それに中学までの私は「チビ、デブ、ブサイク」といわれるくらい、太っていて小柄だったんです。だから私は生まれた時からの美人でスタイルも良くて、というタイプではなく、むしろコンプレックスの塊。でもそんな私を励ます意味もあったと思うのですが、美容部員の母が色々と教えてくれたんです。私の両親は在日韓国人で、日本に来てから母は女性がきれいになるための所作なども教えていました。母は私に「ミカちゃん。何も目鼻立ちがきれいなだけが美人じゃないの。一緒にいて心地いい、清々しい人であることも美人。大人になったらそんな美人になってね」といつも言っていました。そして4つのことを叩き込まれたんです。

 1つ目はおなかに力を入れて姿勢をよくすること。2つ目は口角をきゅっと上げること。これが難しかったんです。ケガのことがありましたから、歯科大にも通いました。3つ目は相手に聞き取りやすい声でゆっくりと話すこと。子どもは母親に話を聞いてもらいたくて、興奮すると早口になるでしょう。4つ目は相手の目を見て話すこと。人に呼ばれたら体ごと向きなさいと、小技も教えてくれました。そして、私がそういったことをちゃんとできると、母は必ずほめてくれるんです。おかげで小学校に上がる頃には人一倍元気で活発で、自信のある女の子になっていました。

― 素敵なお母様ですね。
AHN はい。でも母は30代から体が弱く、私が小学校高学年のときにはガンになり、中学の頃には寝たきりでした。でも小学校のとき、人一倍鏡を見るのが好きな私に母はこう言ったんです。「モデルさんになったらいいかも」と。「〜かも」ですよ「なれる」とは言ってない(笑)。でも私はすっかりその気になってしまいました。中学生のとき、寝たきりになってしまった母親を見ながら「なんとしてもお母さんが生きている間にモデルになろう」と思ったんです。普通、モデルになる人は9割がた容姿が優れた人でしょう。でも先ほども話をしたように、私はコンプレックスだらけだった。でもそれを少しずつ克服する過程で、モデルになりたいという気持ちを固めていったんです。それには母親の精神的な影響がとても大きかったわけですね。
― モデルになろうという気持ちはどんどん磨かれ、強くなっていったわけですね。
AHN 中学3年生のときにはとある大きなモデル事務所に5回書類を送って5回返されました。それでも母親の命も長くなくて焦っていたのでその事務所に電話して「私、写真写りが悪いので、実物を見たほうが得だと思います」って言ったんです。「そんなに言うんだったら来てください」と言われていったら「実物もちょっと」って落とされたんですけど(笑)。でもそこの社長さんが「大きくなったら遊びにおいでね」と社交辞令で言ったんで、私は毎週通いました(笑)。その事務所は大きなオーディションの後、適性審査をして、レッスンを受けさせてくれるんですけど、そのレッスンに欠員が出たときにたまたま遊びに行っていて「これも縁だから」と受けさせてもらったんです。私、落ちたのにレッスンを受けさせてもらえることになりました。ただ15歳だし「就職しなさい」と言われていました。所属はできたものの、高校3年間は陸上部で真っ黒で、モデルとしては泣かず飛ばず。スポーツではかなりいい成績を残していたんですが、最終的に体を壊したんです。それでトレーナーにまわったんですが、思い残したモデルのほうへ行こうと。進路を変えて、パリに行こうと思ったんです。高校を卒業する18のときでした。

No.07 AHN MIKA

― そこで、いきなりパリですか!
AHN モデルを職業にすると言ったら父が大反対したんです。そこで条件を出されたんですね。まず、家を出る。世の中で一流と認められるまでは帰ってくるな、と。愛情はあるけど厳しい条件でした。そして「モデル以外の資格を取れ」と言われたんです。モデルは手足にケガをしたら続けていけない仕事だし、他の人と見た目で比べられると。そこで自分に付加価値をつけないと生きていけない。新聞を読んで、社会の動きを知って、求められる人になる。自分がやりたいことができなくても、他のことで求められて社会とつながっていれば、人として自信がつく、と。そういうふうに「人の役に立つ」ということの大切さを父は教えてくれたんですね。それが後々本当に私のためになりました。

でもその時の私はまだ18歳。8月が母の命日だし、それまでには家に戻りたい。半年でモデルとして一流と言われるにはどうしたらいいか。そうや、パリコレや!と思ったんです。コネも宛ても何もなかったんですが、思いだけで、格安航空券で南半球回りでパリに行って。でもオーディションには全部落ちて帰ってきたんです。

― でもこれまでの人生から推測するに、すごすごと帰ってきたわけじゃないですよね。
AHN 20社電話して3社だけ見てくれると言ったんですが、担当者とも会えないんです。3社目のときに受付の人に聞きました。「なぜ会ってもくれないの」と。すると「なんでそんな服で着たの」と言われてしまったんです。服というのは一つのコミュニケーション・ツールであると。白いチャイナカラーのブラウスに黒いロングパンツ、センターパーツの黒髪でアジアン・ビューティーを強調したつもりだったんだけど「あなたは顔の骨格がしっかりしててなで肩なのに、そんな衿では顔が大きく見える。その白も顔がくすんで見える。自分のことを知らずに服を着ている人が、デザイナーの信頼を得られるわけがない。まず自分を知りなさい。ただのTシャツ1枚をどうかっこよく着るか。デザイナーはミューズとしての感覚をそこから見ているのです」と。その事務所は有色人種を多く所属させていて、そのハンディに勝るセンスのある人を採ろうというポリシーを明確にもっていたんですね。私は日本に帰って、自分を徹底的に分析しました。
― そして再びパリへとチャレンジしたのですね。
AHN 実は帰ってから、まずバイトだった。お金もないですしね。でもある偶然のすばらしい出会いがあったんです。次の事務所のマネージャーさんがこっそりと、ある服装学院の京都でのファッションショーに呼んでくれ、ショー自体は「友達どうしがモデルになる」というようなコンセプトで、私は「モデルとしては意味がないなあ」とがっかりしていたんですが、ショーが終わって、有名なカメラマンのロバート・ショーナーという人が私に声をかけてくれたんです。「あなたはモデルですか?でも日本人じゃないよね」と。その方は「i−D」と「ドイツ版ELLE」のカバーの撮影を兼ねて来ていたらしく「明日竹やぶでかっこいい撮影をするからモデルとして来てくれないか」と。ヘアメイクは日本で有名な方たちだったので、信用して出かけました。そのショーに出ていたまだ無名の人の服を着たんですが、それがロンドンの「i−D」に掲載されて火が点いたんです。そのデザイナーが私をずっと海外でも使ってくれて、フリーランスの状態で、私はどんどん雑誌に出ていったんです。竹やぶの撮影も忘れていたんだけど、後から海外の雑誌に使われていたのがわかり、その広告がヨーロッパで賞まで獲ったんです。それを売り込みのブックにして、今度は堂々とパリに行こうと。そうしたら、先にそのデザイナーさんがパリコレに出ることが決まって、私はいきなりパリコレに出ることになったんです。

パリコレの会場で、最後に落とされたパリの事務所のマネージャーさんもいらしていて「覚えてますか?私、私」って再度オーディションをしてもらい、契約にもこぎつけました。でも落とされるというのは、やはり何かが足りなかったんですよ。それはつくづく思いますね。父も奇抜な服の私の写真を見て「なんやこれは」と言いながら嬉しそうでした。だから、京都のファッションショーに行かなかったら、何も始まらなかった。

― AHNさんのお話を聴いていると、幸運はつかみ取るものだなという気がしますね。
AHN 私、すごいしつこい性格で「ダメ」と言われるほど燃えるんです。人から言われたくらいではあきらめがつかない。それに、私がモデルを始めた頃は30歳でもうモデルはおしまいという時代でしたが、バブル時代の女性は結婚し、子どもを産んでもきれいなままで、そういう先輩がいるなかで、私は独身。もし「社会と手をつなぐ」という父の教えがなかったら、そこで私は終わっていたかもしれません。でもいろんな分野のいろんな方と積極的に出会ってきたので、すごく人生を楽しめていると思うんです。一人の女性として自信をもてる。世の中、みんなが思ってるほど孤独じゃないし、みんなが孤独だったりもする。心の闇に落ちいらず、常に扉は自分で開けたらいいんです。また大きかったのは30歳で韓国留学したことですね。モデルとして20代で得たものをいったん手放したんです。父が亡くなって、お墓をつくるために踏んだことのない韓国の地を訪ねたんですが、両親のルーツを知りたくても言葉もわからない。韓国語を学べと言われていたのにサボっていたんです。それでその時にあった仕事を全部辞めて、思いきって一年留学しました。ちょうどワールドカップが韓国で開催された年。その一年間にファッションの定義も日韓の間の感情も変わったし、また自分の価値観をリセットできた気がします。一回すべてを手放したから、すべてがまた入ってくることになんの抵抗もなかったというか。今、38歳ですが、40代になるのはわくわくします。結婚もしたいと思っています。家族が仲がよかったし、冗談がいっぱいで、歌がいっぱいで、明るい感じだったから。
― とても自然な元気で道を切り開いて無理がない感じが伝わってくるんですが、AHNさんの考えられる女性の美しさってどういうものでしょう。
AHN ひと言で言うと、しなやかさ、ですね。芯が一本あると、後のものはしなるでしょう。たとえばスポーツ選手にせよ、モデルにせよ、見ている人が美しい体だと思えるのは、体幹がしっかりしているからなんです。体幹がしっかりしていれば、すべての動きがしなやかになる。自分も自信がつくし。体幹がしっかりすると心もしなやかになる。それで私は「肩甲骨」をしなやかにすることをお勧めしているんです。『モデルAHN MIKAの肩甲骨美人ダイエット』 (グラフ社)という本も出しているんですが、「肩甲骨」を閉めて胸が開く。胸筋がつく。エネルギーが出る。これは「オープン・ハート」につながります。美しくなることに罪悪感などもたず、しなやかに堂々と。皆さんに健康と美を謳歌していただきたいと思っています。

美の逸品

私を美しくしてくれる一品

「年をとると「土に返る」ような色ばかり着てしまいますよね。でも色は人を元気にします。自分も、見ている相手も。NHKでキャスターをやっていたときにゲストにプレゼントをするコーナーがあって、アロマの贈り物をしていたんですが、そこから出会ったのがオーラ・ソーマ。色のもつ波動とボトルの数字などから、自分に必要なメッセージを選ぶんです。自分に気づき、受け入れていくプログラムの深さに感銘し、プラクティショナーのレベル3まで資格も取得しました。生涯、ゆっくり学んで、いつかたくさんの人に伝えていきたいと思っています。」

AHN MIKA(あん・みか)

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AHN MIKA(あん・みか)あんみか

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韓国済州島出身、日本育ち。1993年にパリコレクションに参加後、国内外のファッションショー、ファッション誌などでモデルとして活躍中。最近は、モデル以外にも執筆、テレビ出演など様々な活動をしている。20…

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