山本モナ (やまもと・もな)
オンナの元気塾 主宰
- ― お生まれは広島県の尾道。
おじい様は新聞記者だったのですね。 - 山本 祖父は新聞記者、母も新聞社に勤めていました。私がマスコミの仕事に興味をもったのも、知らず知らずのうちに家庭での影響があったのかもしれません。でも子どもの頃の私はジャーナリストになりたいと思っていたわけではなく、エジプト文明に憧れて考古学者を目指したり、星や宇宙が大好きでNASAを目指したり、とにかく夢の多い子供時代でしたね。小学5年生から塾通いも始めて、とにかく勉強して何かになってやる!といった感じでした。けれども高1から国公立大学の受験コースにいるのに物理ができなくて、中途半端になってもいけないと思い、高3からは私立文系受験のコースに変更したんです。それはすなわち、NASAをあきらめるということでした。そこを目指すためには宇宙物理を教えてくれる京大か東大に行かなくてはならなかったからです。それと、高3の夏に、ちょっと自分のなかで激変がありました。
- ― 「激変」と、言いますと?
- 山本 高3の夏に「いったいなんのために勉強しているんだろう」と、突然学校に行くのが嫌になってしまったんです。それまでは全国模試でもかなりいい成績でしたし、何の疑いもなくただひたすら勉強をしていました。急にバカバカしくなってしまったんですね。友達の家に朝までいて近所のカフェでモーニングを食べたり、4ヶ月くらい、高校生らしくない生活をしました。でも浪人する勇気もなく、また勉強を再開しました。そこからは現実的に私立文系だから、ジャーナリストもありうるな、と考え始めたんです。
- ―それで大阪、朝日放送のアナウンサーに合格されるんですね。
- 山本 実はアナウンサー試験は日程が早くて、朝日放送は最初に受けて最初に合格したんです。家族に相談したら、アナウンサーという仕事は取材もできるし、女性としての資質も生かせる。いい仕事なのではないだろうか、と。それで98年、ありがたく入社しましたが、理想と現実は違っていましたね。もちろん有意義なこともたくさんありましたが、基本は会社員です。当時の私には社会人として会社に勤めるという自覚は足りなかったかもしれません。今の私ならあの頃の私に注意できることはいっぱいありますね(笑)。
- ―マスコミとはいえ、封建的なところはあるかもしれませんね。
- 山本 そうですね。入社当時は働きながら子どもを生んだ女性社員はいなかったくらいです。結婚して辞める人がほとんど。5〜6年目の頃、ようやく出産して現場復帰する女性が現れたくらいでした。
- ― モナさんは29歳でフリーになるために会社をお辞めになりましたね。どのような理由があったのですか?
- 山本 丸7年勤めたことになりますか。8年目に辞めたのかな。理由は複合的なものです。理不尽だなと思える人事異動があったり、モチベーションを保てなかったり。ちょうど先のことを考える時期でもありました。制作スタッフからは「30過ぎた局アナをバラエティには使えないよ」といった話もよく聞きましたし。局アナの「29歳問題」って、深刻なんです。確かに29歳で辞める人は多い。報道局のデスクに異動になるとか、社員として現場に出ることを止められてしまうこともあります。特にあの頃はそういう風潮がありました。私自身、常に現場にいたいという気持ちはありましたし、そういう働き方をしてきたつもりでした。なかなか理想には追いつけないけれど、勉強もしたつもりでした。一方で、一つの会社に一生勤めようという考えもありませんでしたし、このままここでいいお給料をもらい続けるというメリットよりも、これからどんなふうに自分にしかできない人生を生きていくかということを考えたかったのです。ある評論家の紹介など、これまでお仕事をご一緒した人たちからいくつかの事務所を紹介していただきました。そこでアドバイスとして有効だったのは「同じ事務所のなかで競争しなくてはならないところはやめたほうがいいよ」というものでし。そんな折、オフィス北野が「フリーアナウンサーを探している」という話を知り、所属することにまでなったのでした。
- ― 上京してから仕事は順調でしたね。
- 山本 焦ってもいなかったし、なるようになるかなと思って上京したのですが、TBSラジオで局アナの夏休みのときのピンチヒッターを探しているということで、宮崎哲弥さんに紹介していただき、そのまま、プロデューサーが気に入ってくださって、次の年始から月〜木曜のレギュラーに起用してもらえることになりました。
- ― フリーになって働き方など変わったことはありましたか?
- 山本 会社員時代のお給料制とは違って、フリーになってからは、当然のことながら仕事がないとその対価もいただけません。ひとつの仕事から、次の仕事へとつなげていくためにも、今やらせていただいているお仕事への取り組み方や、考え方が変わった気がします。「どうしてこの仕事が私にいただけたのか」というところまでさかのぼって考えるようになりましたね。あとは、自分自身がスキルアップして行かないといけないという向上心も、以前より大きくなった気がします。
- ― その後、メディアの出演を控えられ、結婚されましたね。
- 山本 結婚して一年ちょっとになりますが、私自身は何も変わっていません。語弊を恐れず言うならば、人生を変えるほどの結婚ってそうないと思うんです。ただ好きな人がいて、子どもも欲しかったから。結婚はゴールじゃなくて、新しい生活のスタートです。
- ― 現在、不妊治療中だとブログで拝見しましたが。
- 山本 ブログに書いたら、1000件以上の書き込みをいただきました。同じ問題を抱えている人がこんなにいるんだと思うと、私自身、自分の問題としてだけでなく、多くの女性に関する問題として向き合っていかなくてはと思うようになりました。一緒に意見を交換しながら頑張っていけたらと思います。
- ― モナさんは講演でどんなことを伝えていきたいですか。
- 山本 女性が生きやすくなるように、生き方に選択肢ができたらいいなと思います。たとえば、結婚にもいろんな形があっていいと思うんです。無理やり婚活ビジネスに利用されることもない。女の人の生き方はもっといろいろあって、すべて認められていいと思うんです。また、今は情報が溢れている時代です。その中で、たくさんの情報を精査していく力が必要になってくると思うんです。その情報が信頼できるものなのか、嘘なのかを判断することは本当に大切ですよね。まだ私も試行錯誤しながらですが、実際に多くの女性と共有できる場をもちたいと考えています。ちょうど12月、日経BPから『モナ―本当の私』(発行日:12月19日)という書籍も出版します。自分の半生を振り返って、働く一人の女性として、自分が悩んだことや苦労、本音を素直な言葉で綴った本です。ぜひ講演と一緒に読んで頂けると嬉しいですね。今後、講演をはじめ、書籍やブログなどを通じて、女性が社会進出する上での課題や問題を一緒に考えていけるような情報を、私自身の体験も合わせて共有していきたいです。
美の逸品
「香りが好きで、気分で変えています。基本的に使っているのは「TOVA」という香り。今はディプティークやマークジェイコブスも愛用しています。落ち込んだときに、うまくいっていたときの香りをつけると、気分が上がるという効用がある気がしています。あとボディクリームも。ボディクリームは香水ほど強い香りではないので、おすすめです。もちろん、香りは場所を問いますので、食事のときは控えめに。お寿司やワインを楽しむときは何もつけないというふうに心がけています。」
山本モナ (やまもと・もな)やまもともな
オンナの元気塾 主宰
ノルウェー人の父と日本人の母を持ち、広島県で生まれ育つ。 アナウンサー時代には「熱闘甲子園」や「朝だ!生です旅サラダ」に出演。報道記者としては、「和歌山カレー事件」、「池田小児童殺傷事件」などを担当…
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