片岡安祐美(かたおかあゆみ)
茨城ゴールデンゴールズ選手兼任監督
- — 実は遅ればせながら、先ほど、Youtubeでサプライズ・プロポーズの画像を拝見しました。24時間テレビのなかで、本当にサプライズだったのですね。
おめでとうございます。 - 片岡 はい。ありがとうございます。年内に入籍するつもりです。彼は元プロ野球選手で(元DeNA投手の小松公太さん)、今はラーメン屋さんをやっていますが、私にはずっと野球と関わっていられるといいねと応援してくれています。茨城ゴールデンゴールズのみんなも、冗談かどうかわかりませんが「妊婦さんになってもそのとき用のユニフォームを作って、ずっとベンチにいてほしい。ファールボールが危ないから、控えの選手にグローブをもたせて、前に座らせるから」と言ってくれているんです。いろんな人たちに支えられてここにいられることが本当にありがたいです。
- — 本当にずっとずっと、野球に関わっていたいのですね。そもそも、野球を始められたのは何歳のときですか。
- 片岡 9歳のときです。熊本に生まれ育ったのですが、テレビで見た甲子園に憧れました。父は巨人ファンで、夜はプロ野球を見ていましたが、そちらにはあまり興味が湧かなかった。巨人が負けると、父は機嫌が悪くなりましたし(笑)。なんといっても、甲子園はきらきらしていて、かっこよくて、ちっちゃいボールに一喜一憂して、敵でも試合が終わったら拍手を送る。日本中が熱くなれる、その感じがきらきらしていると思ったのです。高校生活のほとんどを費やし、我慢して我慢して、そこに賭ける。勝っても負けても高3でおしまい。そういうぎゅっとした時間の感覚も好きだと思いました。
それに憧れて、野球を始めたのですが、実は、女子が甲子園に出られないと知ったのは、中3のときだったのです。 - — それはどんなふうに? さぞかしショックだったでしょう?
- 片岡 父から「これを読んでおけ」と、高野連の大会参加規定を手渡されたんです。そこには(出場は)「男子生徒に限る」と書いてありました。「自分の将来を考えなさい」と言われ、頭が真っ白になりました。
- — そこであきらめてしまわなかったのですね。
- 片岡 それから、鹿児島の神村学園という女子公式野球部のある学校へ見学に行ったり、ソフトボールを見に行ったり、ずっと約束していた夏の甲子園も卒業旅行として1泊2日で父と見に行ったりしました。あのすごい歓声、きらきらした光景は忘れません。その旅行を終えて帰宅し、父ともう一度話し合いました。私は「私を高校球児として受け入れてくれる高校を探してください」と言いました。
父はその前に女子野球日本代表のことを教えてくれました。翌年、世界選手権がフロリダであり、テストがあると。私は日本代表になりたいというより、女子野球をやっている人たちに会いたくてそれを受けました。そのテストには合格しました。 - — すごいですね。でも、そこではやっぱり100%満足していなかった。
- 片岡 その女子野球の日本代表に合格したという肩書きをもって、高校球児として、熊本商業高校へ入ることになったのです。父が監督にかけあってくれました。
一度は保留されましたが、監督の奥様が「女子を育てるというのも、勉強になるかもしれませんよ」と言ってくださったそうです。 - — たくさんの大人たちが動いてくれたのですね。まずはお父様がすごいです。
- 片岡 ありがたいことに、父は選択肢をたくさん与えてくれました。両親ともに、そういう考えなのですね。幼稚園を選ぶときから、こういうところがある、とひとつずつ園の特徴を説明してくれて「どこに行きたい?」と聞いてくれました。
- — 高校球児になって、男子と肩を並べての活動は大変だったでしょう。
- 片岡 まず「特別扱いは止めてください」とお願いしました。だから、朝から晩まで同じように練習しました。特別扱いだったら、うわべだけの仲間になってしまいます。
- — 女子と男子では体のつくりも違います。生理もありますよね。
- 片岡 運動のしすぎで止まってしまい、ホルモン剤を飲んで気持ち悪くなりながらこさせたことはありました。着替えだけは女子マネージャー室でやらせてもらったり。… でもそんなことも、自分が高校球児でいられると思うとうれしくて吹っ飛んでしまいました。
- — でも、大会には出られないわけですよね。
- 片岡 はい。背番号ももらえない。「女子野球日本代表」という肩書きを先にもっていなければ、モチベーションの維持は難しかったかもしれませんね。結果的に学校自体も甲子園には行けなかったのですが、みんなががんばってレギュラーになるのを見ていて、やっぱりダメージが出てきました。高2のとき、ボートをやっている友達が優勝して新聞に載っているのを見て、自然と涙が出てきたのです。
両親が「なんで泣いてんの」と言いました。私は「わかんないけど、涙が止まんない」と。「今おまえの頭に浮かぶ言葉をなんでもいいから言ってみろ」「私、成長してんのかな。まだ足りないんじゃないかな。それでもやってるな。ほんとに野球好きなのかな」と、バラバラに答えました。すると、父はこう言ったのです。
「普通、高校生は何になりたいとかわからないもんだ。おまえの悩みは好きなことがあるからこそ出てきた悩みだ」と。「自主練してきて夜の11時にご飯を食べてるおまえは、やっぱり野球が好きなんだろう。とことんやりなさい」と。
- — 練習しきって終わった高校野球生活だったのですね。その後、茨城ゴールデンゴールズと出逢うのですね。
- 片岡 ちょうど大学受験にも失敗した頃に「茨城ゴールデンゴールズ」の話がきたのです。萩本欽一さんが安祐美に会いたいと言ってるよ、と。欽ちゃん?仮装大賞の人でしょう、っていうのが最初のイメージでした。萩本さんが福岡へ来られるときに会いに行きました。「将来の夢はなに」と聞かれて「野球に携わる仕事がしたいです」と言うと「携わるだけでいいの」と。私は他に仕事がないと生きていけないと思っていましたから。それで「本当はプロ野球選手になりたい」と言ったら「その夢を叶えてあげる」と言われ、トライすることを決めました。
- — 茨城に移り住んで、そこで大学へ通われています。
- 片岡 教員免許をとれと親に言われて。一人暮らしをして、あったかいご飯は勝手に出てくるものじゃないと知って。高校野球の延長くらい、野球もしっかりして、学校にも行きました。野球は元プロの人たちが教えてくれますから、知識量が違いました。目から鱗なことがたくさんありました。18歳でチームに入って、6年間は選手1本で頑張りました。その間に日本一に2回なりました。教員免許(商業)も取りましたよ。
- — 次の転機は、監督を任されたあたりですか。
- 片岡 24歳のとき、萩本さんが「監督を辞めるから、安祐美がやれ」とおっしゃったのです。そのとき、断るという選択肢はなかった。監督がいなかったら、チームがなくなっちゃいますから。やるしかない。ところがコーチをした経験もない。理想を求めて、今まで出会った監督を思い出して腕を組んでむすっとしていたのです(笑)。そうしたら最初の2年は野球が楽しくなくなって、体調を壊し、自律神経失調症になりました。ずっと船に乗っているような感じで、食べたら戻す繰り返しで5キロ痩せました。「私、何やってんだろ」と。
- — そこで、どう舵を切り直したのですか。
- 片岡 みんなに集まってもらって正直に話しました。「薬を飲みながらやっています。チームを強くしたいという思いは誰よりもあるつもりだけれど、どうしたらいかわからない。アイデアをください。助けてください」と。そうしたら「安祐美のチームなんだから、やりたいようにやればいい。わからないことは聞いてくれ、一緒に考えよう」と、みんなが言ってくれました。自分自身でも、そこから言葉のチョイスがわかるようになりました。「こうして」じゃなくて「これをやってもらえますか。そうしたら、私、こっちができますので」とか。「あなたのフォームでちょっと気づいたことがあるんだけど、聞きたくなかったら言わないけど、言ってもいいかな」とか。そうすると、選手との距離が近くなっていきました。
だんだん「安祐美監督をオトコにします!」と言ってくれるようになって、2014年に優勝することができたのです。史上初の女性監督として表彰もしていただきました。 - — 一生ユニフォームを脱がない、と決めたのはいつですか。
- 片岡 もともとそういう思いはありましたけど、優勝直前に負けるとか、なんかこうそういうことが重なると、またむくむくと負けず嫌いが出てくるんですね。
優勝前はもう結果が出なかったら熊本に帰ろうかとか思っていました。優勝して花道かと思ったけど、またご褒美の後、負けたら、これはダメだ、もう一生、ユニフォームは脱がない、私生活が変化しても、なんらかの形で野球に人生を捧げようと思っています。 - — 安祐美さんは美人だし、女性らしさということを自分ではどう感じていましたか。
- 片岡 「髪を伸ばす」ことで、女だと舐められたり、色気づいた思われるのが嫌で、長いことショートカットだったのです。でも妹の結婚式をきっかけに伸ばし始めて、結果さえ残せば、声が高くても髪が長くてもいいんだと思えるようになりました。女性にこだわるのをやめるより、女性であることの視点を生かそうと。たとえば、選手の感情を見抜くのは女性の私が長けています。痛いところがあってもたいていの選手は「大丈夫です」と答える。「試合に出たい気持ちはわかるけど、無理すべきときか、そうでないかを決めなきゃいけない。今が来週の大会なら、あなたの力が必要だから、私はテーピングしてでも出てもらいます。でも、来週の大会のために、今日は休んだほうがいいのでは」と、私だから言えるのです。言葉の優しさを使えるのも女性だから。だから、女性であることをちゃんと自分もちゃんと受け入れようと思うようになりました。ここ数年はグランドを離れたら、女性らしい格好をするようにしています。
- — 今の安祐美さんは、とても美しいです。安祐美さんにとって、美しさとはなんでしょう。
- 片岡 2年前、29歳の私はとてもしんどかった。仕事もプライベートもうまくいかない。自分磨きをしようとか、見た目だけを繕おうとしていた。31歳を迎える今、いい意味で力が抜けるようになりました。人間だから、ダメなとこ、できないことはあります。できないことは誰かに手伝ってくださいといい、譲れるところは譲る。どこかに譲れない芯をもっていたらいいのだから。何事も楽しもう、心の底からハッピーになれることを考えようと思うようになりました。
美しさ、って作れるものじゃない。心のなか、体のなかで感じた経験をすべて受け入れて、一歩進めることが美しい。つらいこともうれしいことも、すべてがあって、今の自分があるのだと思います。誰だってそうです。自分を受け入れて、向き合いましょう。そこでの笑顔は、きっと誰でも美しいと思います。
美の逸品
安祐美さんに身だしなみとして日焼け止めや基礎化粧品をすすめてくれたのは、彼女のお母様。
「母は高校を卒業したときに、化粧品もワンセット買ってくれました。友達と遊びに行くときは少しは化粧したほうがいいよ、と。
高校のときは女子マネも日焼け止めだけは塗るように言ってくれました」。
RICE FORCE は10年くらい使い続けている基礎化粧品。
「日焼けして乾燥した肌にもすっと染み込んでくれます。もう美白は諦めていますが、せめて美黒を目指しています(笑)」。
片岡安祐美(かたおかあゆみ)かたおかあゆみ
茨城ゴールデンゴールズ選手兼任監督
熊本県熊本市東区出身。流通経済大学経済学部経営学科卒業。父親の野球好きの影響から、自分も「甲子園でプレーをしたい!」と思うようになり、小学校3年時に自分の意志で野球を始める。甲子園を目指して熊本商業高…
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