YouTubeの再生回数が世界で1億3000万回を超えた「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」。動画に登場する「ピコ太郎」は、紅白歌合戦にも出場、サマーソニックの舞台に立ち、グラミー賞ではレッドカーペットを歩いて取材。ウガンダ大統領と会い、UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦のPRアンバサダーになり、国連でPPAPを披露して、とうとうトランプ大統領の来日晩餐会にも呼ばれた。そんなピコ太郎のプロデューサーが、古坂大魔王さん。芸人であり、音楽プロデューサーでもある。
1991年に18歳で青森から上京、お笑いトリオ「底ぬけAIR-LINE」の一員として「ボキャブラ天国」などの番組に出演。お笑いブームの中で、いきなりのブレイクを果たした。しかし、自らブームに距離を置くようになり、ライブ演出などで早くから関心を持っていた音楽の世界へ。音楽性を追求するテクノユニット「NO BOTTOM!(NBR)」の音楽活動を展開、クラブイベントのプロデュースや楽曲リミックスなどを手がけるようになる。
やがて、高い音楽性とお笑いがミックスした独自の世界観を築くことに成功、それが結実したのが、プロデュースしたピコ太郎の「PPAP」だった。現在では、ピコ太郎はシンガーソングライターとしての活動のほか、外務省や総務省のプロジェクトにも加わっている。どのように下積みの時代を過ごしたのか。ピコ太郎は、いかにして世に送り出されたのか。ヒットやマーケットをどう見ているか。多くの人に伝えていきたいこととは…。ロングインタビューをお届けしたい。
絶対無理だと思ったことも、言い続けると、本当になる
青森県のご出身です。三人兄弟で、お兄さんは銀行マン、弟さんは大学教授だそうですね。古坂さんは、どうしてお笑いの世界に入られたのでしょうか。
父は船職人で、母は漁師の子どもでした。職人一家だったんですが、都市部に家がありまして、隣は医者と公務員。学歴にコンプレックスがあったのかもしれないんですが、母親から猛烈に勉強させられましてね。中学2年からは1日6時間は勉強。食べたかったら勉強しろ、とばかり、ご飯をチラつかせられたりして(笑)。100点を取るとステーキが食べられました。でも、98点じゃダメなんです。食べ盛りでしたから、これが効果的で(笑)。兄は一時期、青森県で2位になったりして。弟も最初はできなかったんですが、考古学をやりたいと目覚めて最後は東大の大学院まで進みました。
兄とは3歳離れていましたが、頭はいいし、ケンカでも勝てない。何をすれば勝てるのか、と考えて見つけたのが、笑いを取ることでした。きっかけは幼稚園の学芸会。桃太郎でサルの役をやったんですが、しっぽのついたタイツを僕は前後、逆にはいてしまって。舞台に出たら、これが大ウケ。人を笑わせる気持ちよさを知ったのが、このときでした。
そして小学校に入ってから、テレビで出会ったのが、ビートたけしさん。カッコ良かった。小学校3年のときには、文集に「漫才師になる」と書いていました。母親からは、将来は公務員になれ、と言われていました。僕は、あまのじゃくで、ひねくれ者ですから、反発心も大きかったと思います。普通、反発すると不良になったりするものですが、僕なりの反抗が母の描いた人生とは違う道を歩むこと、つまりお笑い芸人になることだったんです。
青森県からお笑いタレントになる、というのはハードルが高かったそうですね。
方言がきつくて、言葉の壁がありました。訛りを使って笑いを取る人はいても、青森出身の芸人というのは、いなかったと思います。でも、そうだと知ると、ひねくれ者ですから、ますます燃えるわけです。小学4年のクラス会でコントをやって、小学6年のときは同級生と録音した漫才のテープを地元のラジオ曲に送って、毎週ラジオに出るようになりました。この頃、とんねるずさんが出てきて、また憧れるんです。
学校では、何をすればクラスで受けるか、そればかり考えていました。人気者になって、重要人物になりたい、と。昼休みに「家の出来事」をネタにトークショーを始めたんです。でもそれが大好評で結構な人数が集まった。チケット代として100円を徴収しようとして、学校で大問題になったりして(笑)。
もう中学1年のときには、お笑いの道に進むと決めていました。仲間5人とオーディション番組に出るために東京に来たり。でも、他の4人ははなからお笑いで生きていくなんて無理だと思っているわけです。当時は今でいうなら、日本からハリウッドスターになる、くらいの壁に思えましたから。でも、それが悔しくて。絶対やってやる、と僕は思っていました。それで高校を卒業して、ウンナン(ウッチャンナンチャン)さんが出たことで有名になった日本映画学校というところに入るんです。初日に相方を見つけて、2日目には学校を休んで練習していました。ネタは高校までにたくさん作っていましたから。すぐにオーディションを受けに行って。学校は半年で辞めたんですが、それを母親に言えませんでした。2年くらい黙っていました。もともと大反対でしたから、仕送りもナシ。家賃1万円のボロアパートに住んで、ガソリンスタンドで働いて、学費も生活費も稼いで。ど貧乏でしたね。
でも、いきなり「ボキャブラ天国」に出演してブレイクすることになって。
いい時代でもあり、悪い時代でもありました。横並びにすごい人たちがたくさんいて。ちょっと上の人たちも含めると、爆笑問題、くりぃむしちゅー、ネプチューン、Take2、千原兄弟……。今ではありえないですけど、20代前半の若さでレギュラー番組を持つわけです。お笑いライブブームがあって、チケットが飛ぶように売れて、ライブでウケると即、テレビに出られた。そして、芸がそれほどあるわけではないのに、大先輩と一緒に肩を並べてテレビに映るんです。明石家さんまさん、ダウンタウンさん、今田耕司さん、ヒロミさん……。僕は19歳で、ウンナンさんと仕事をすることになって。
でもずっとこの世界に憧れていた僕と違って、トリオの残り2人は俳優志望だったんです。だから限界があった。僕がボケてるのに突っ込んでくれないから、一人で全部やろうとする。それではコントの見栄えがよくないわけですね。他のチームはバランスが良かった。だから、次々に離されていくのを感じました。テレビのオーディションでもなかなか勝てない。ここままじゃいけない。作戦を立てないといけない。お笑い以外の何かを持とう、と決めました。それが、音楽でした。歌に興味があったというより、音やBGMに興味がありました。お笑いライブが始まるときは、テンションの上がる曲をかけたりする。そのアレンジをしたりするのが、好きだったんです。高校のときは、ラジカセを2台使って、マイクでバスドラ(バスドラム)を加えたり。今でいうリミックスまがいのことを手作業でやっていました。自分のライブのオープニングに使ったりして。
20歳くらいになって改めて思ったのは、なりたいのはお笑い芸人というよりも、エンターテイナーなんじゃないか、ということでした。全部ができる人。お笑いも歌も演出も。堺正章さんやドリフターズさんみたいに。でも、芸人が他のことをやるのはダサイ、という時代でした。芸人ならお笑いだけやれ、と。でも、これがまた、ひねくれ者にはカチンとくるわけです。そういうの、嫌いだな、と。「ボキャブラ天国」でも、音楽でオチを作ろうとしたらダメだ、と。あくまでダジャレだと言われて。それならワンマンライブで思い切りやろうと思いました。音楽をちゃんとやってやろうじゃないか、と。
周囲は絶対に無理だと思っていた夢を、本当に叶えてしまったんですね。
実は20歳のとき、子どもの頃に描いた夢はみんな叶ってしまったんです。一番の夢は、東京に行って、超一流のお笑い芸人と同じ楽屋に入ることでしたから。絶対無理だと思ったことも、言い続けると、本当になるんです。だから以前、小学校で講演をさせてもらったときも、言霊って大切だよ、と伝えました。しゃべったことは、本当になるんです。言っちゃった手前、やらないといけなくなる、という心理的な効果もあるかもしれない。 適当にうそぶくことだっていい。無理だと思っていても、できることを考えるようになる。どうすれば、できるかを必死で考える。言霊を発しちゃうとそうなるんです。いついつまでにやる、と。そうでもしないと人間、怠けますから。気を付けないとゆっくりしちゃう。僕は、明日できることも今日しよう、といつも思っています。
でも母親はずっと反対していました。学校を辞めたことを報告してからは、勘当状態になりました。本心では心配していたんだと思います。親に頼らなかったですから。でも、母親の言葉はよく覚えています。「何でもいいから一番になれ。弱い人間には何もできない。強くなって、弱い人間ば引っ張れる人間になれ」と。これはずっと心にありました。
夢
自分がやりたいことをやるために、ピコ太郎に任せた
せっかく進んだお笑いの道から、音楽の道に大胆にシフトされるんですね。
お笑いブームや「ボキャブラ天国」のおかげで、22歳くらいでワーワーキャーキャーされるようになりました。ネタをやっても、とにかくワーキャーで聞いてもらえないんですよ。一方でワンマンライブで本気のネタをやろうとすると、反応がない。「ボキャブラ天国」のネタを待っている。これはやばい、と思いました。知名度があるうちに、新しい道に本格的に行ったほうがいい、と。
それで、音楽の一番尖ったところに行くんです。ゲームミュージックやテクノミュージック。それでクラブを借りて、音楽好きの芸人を集めてオールナイトのイベントをやったり。 今思うと、豪華なメンバーが集まってくれていました。有吉弘行、劇団ひとり、アンジャッシュ、アンタッチャブル…。みんながバンドやったりして、僕はオリジナルソングを作って、機材入れて。イケる、と思いました。「ボキャブラ天国」とも差別化できた。スキマですよね。
でも、お笑いの道から、他の道に行くのは難しさもあったのではないですか。
そうなんです。音楽ライブに行くと、「お笑いが来るところじゃない」と言われる一方、音楽をやればやるほど、テレビから遠のいていく。コンテンツがハマる場所がないんです。「ボキャブラ天国」が当たって、みんなが外車を買ったりする中で、僕は全財産で音楽を作るためのパソコンや機材を買っていました。当時、700万円くらい。録音ができる家にも引っ越し、お金はなくなりました。でも、そこに賭けたんです。
お笑いブームが去ったとき、テレビとは大きな距離ができていました。テレビって一度、輪から抜けるとなかなか入れない世界なんです。仕事が減り、単なる音楽好きじゃダメだと思い、ちゃんと音楽でプロになろう、と決心するんです。前例はありませんでした。でも、うまくいけば、新しいカテゴリーができる。一度お笑いを控えて、本気で音楽をやろう、と。やってみたら、一から勉強することが山のようにあった。マイク立てから配線から録音から編曲、作曲、全部やらないといけませんでした。3年は下積みでしたね。実際、青森から九州までワゴン車に乗ってライブに行きました。お客さんがゼロのときもあった。でも、このときに出会った人脈は後に宝になるんです。それが歴史なんです。
こうした中から、「ピコ太郎」のプロジェクトが生まれていくわけですね。
音楽コントを始めたのは、1996年くらいでした。コントの中に音楽を入れる。ギター漫談とかではなく、音をちゃんと打ち込んで、ちゃんと合わせて作る。まさに音と舞台が融合するディズニーランドのような最高のエンターテインメントを目指しました。実は「PPAP」のトラックは、1996年に作った「テクノ体操」というネタがベースなんです。コントも振りもほぼ同じ。翌年には、NHKの爆笑オンエアバトルにこれで出演したんですが、点数はまったく良くなかった。
ところがこのとき、立川談志師匠が賞をくださって。実は音楽好きなんですね。中身はよくわかんないけど、パッとやって、パッと音出して、パッと笑い取るってイリュージョンだ、お前ら、やり続けろ。ウケなかったかもしれないけど、目の前の客なんてどうでもいい。自分たちにしかない、新しいことだと思ったらやり続けろ。オレが保証するから大丈夫だ、と。実際、師匠の前座でやらせてもらったこともありました。国立演芸場にサンプラーも持ち込んで(笑)。でも、ウケない。それもあって、僕じゃなくて、ピコ太郎にやってもらおうと思いを託したんですよ。
自分のネタを自分でやるのではなく、別の人にやってもらう。プロデュースという新しい取り組みでした。
なぜ別人なのか、というのが大事なんです。例えば、瀬戸内寂聴さんがいいことを言うから、いいんですよね。無名の誰かが言ってもピンと来ない。でも、無名の誰かがすごくいいことを思いつく可能性がある。そういう場合は、瀬戸内さんに言ってもらえばいい。 あることをするとき、その人が持っている歴史や経験がプラスになることもあれば、邪魔になることもあるわけです。それを考えた。僕が憧れたのは、ビートたけしさんであり、とんねるずさんだったわけですが、チャーミングなんですよ。かわいさややんちゃさがある。ところが僕は身長が186センチもあって、ごつくて、顔もいかつい。僕がやりたかったのは、こういう僕みたいな男がやるお笑いじゃなかったんです。見た目が違うんです。だから、音楽ネタをピコ太郎に全部、お願いすることにしたんです。頭ポンポンはイケメンには許されるけど、オジサンがやったらセクハラでしょう(笑)。同じことをやるにしても、「誰がやるか」が非常に重要なんですよ。
それでピコ太郎に単独ライブに来てもらうようになって「PPAP」をやったら、子どもが反応したんです。後に2016年8月、YouTubeに映像をアップするんですが、最初に食いついたのは女子中学生、高校生でした。1カ月後にジャスティン・ビーバーがリツイートしてくれて世界に広がるんですが、女子中高生はこうツイートしてましたから。「ジャスティン、遅いよ」と(笑)。TRFのDJ KOOさんからは、「スネアのタイミングで808のカウベルはずるいよ」なんて声ももらって。音楽でプロを唸らせたことも最高にうれしくて。
に
ピコ太郎はなぜブレイクできたのか
そして「PPAP」のYouTube動画が大爆発します。どうしてインターネット、だったんですか。
ニコニコ動画が始まったとき、これはテレビに勝つかもしれない、と思いました。テレビでビートたけしさんになるのは無理だけど、ニコ動でなればいいんじゃないか、と。ただ、当時は3Gでしたし、インフラがまだまだでした。だから、2016年までピコ太郎は封印していたんです。一方で「PPAP」を動画にするにはリスクもあると思っていました。オチがないことがわかってしまうから。漫才を舞台で2度やったらウケないのと同じです。ところが、友人から、子どもが見たがるから動画をアップしてくれ、と。しかも、「あれは歌だよ」と言うんです。いい歌だ、スキャットみたいなもんだ。ウケなくなったとしても流行るよ、と。それで、所属事務所のエイベックスはじめ、動画制作のタイアップ先を探すんですが、どこからも断られて。こうなるとまた、ひねくれ根性が出て、絶対にやってやる、と(笑)。それで自分で研究したんです。
厚木のスタジオを1日4万円で借りて、メイクは弟の奥さん、カメラマンは弟の友達、ADは芸人の後輩。それでビデオを20本撮って。1本5000円で10万円。編集を外注すると高いので、編集ソフトを5万円で買ってきて、YouTube見ながら練習して。8月25日の公開にあたって、友人たちにお願いをしました。リツイートしてくれないか、と。こういうお願いをするのは、初めてでした。それができたのは自腹だったからです。だから、みんなも応援してくれた。100万人フォロワーがいる人たちもいたんですよ。バズるとは思っていました。でも、女子中高生に火がついて、あっという間に50万回。そしてアジアに飛んだんですよね。
台湾、韓国、タイ。韓国では有名アーティストが真似してくれて、タイでは国民的ユーチューバーが真似して、ロシアでは大人気の司会者が番組でやってくれた。そして、ジャスティン・ビーバーです。ここからケタ違いにリツイートが増えたばかりでなくて、CNNやBBCなどテレビに取り上げられて、あっという間に全世界に広がっていった。幸運だったのは、所属がエイベックスだったことです。しかも、松浦勝人社長(現会長)が直接、全社メッセージで、ピコ太郎を売れ、と言ってくれて。一斉に134カ国、全世界配信。このとき、初週に1位だったのが、ウガンダだったんです。
世界的な話題になっていく過程をどんなふうに見ていたのですか。
ものすごく冷静でしたね。ネットのブームは2週間と言われています。だから僕は2週間で終わると思っていました。ただ、1カ月続いたとき、これは面白いことになるぞ、と思いました。それがもう2年です。意識してきたのは、お金になることよりも、面白いほうを取ることです。
ピコ太郎は、どうしてあんなにブレイクできたのでしょうか。
世界は人種もたくさんいて、宗教も政治状況も違って、実は「あるある」が少ない。共通認識が少ない。でも、世界につながっていることは認識できました。これまで日本で1億人を相手にやってきましたが、世界には70億人もいたんです。そのうち50億人くらいは英語を理解します。ここで大事なことは身の丈です。デーブ・スペクターみたいに、外国人が流暢な日本語でギャグを言っても意外に面白くない。それよりボビー・オロゴンのほうが面白いでしょう。ピコ太郎の英語がそうです。子供でも容易に理解できるシンプルな言葉。そしてリズム。今は全米の主要なランキングの上位にはラップが入っており、世界で受け入れられている。リズムが大事な時代です。もうひとつは、短いこと。ツイッターで広がらないと意味がない、と思ったんですが、当時は90秒までの動画に限られていた。しかも、今は暇な人が忙しいんですよ(笑)。フェイスブックにインスタにSNSでやることがたくさんあって。リア充アピールとか、インスタ映えとか。短いものでないと見てもらえない。でも、芸能や流行、ファッションに関しては、多少の仕掛けも必要ですが、何がいいのかなんて、本当のところはわからないと思っています。
一つ言えるとしたら、熱と愛、「fever &love」です。かっこつけた言葉みたいで恥ずかしいのですが、どんなに反対され無理だと人から言われてもやり遂げた僕の情熱があり、仲間の愛に支えられてYouTubeがバズった。そしてたまたま時代と芸風がマッチしたんです。熱と愛がなければ、決してこんなムーブメントは起こらなかった。
今後チャレンジしていきたいことと、講演依頼者へのメッセージをお願いします。
今後の目標は大それたことかもしれませんが、世界平和です(笑)。ピコ太郎は外務省に協力するかたちでSDGs(持続可能な開発目標)の動画に出演したり、安部首相やトランプ大統領にもお会いしたり、ウガンダ観光大使になったり。海外のテレビやイベントにも出させてもらって、本当僕自身も「ピコ」というタイトルの映画を見ているみたいで面白いんです。それと、ピコ太郎の歌は子供にウケる。実際に「日本音響研究所」にPPAPの楽曲分析をしてもらったところ、「幼児が泣き止む効果として有効な特徴を有している」とお墨付きをもらいました。今、「SUSHI」(寿司)をテーマにしたピコ太郎の新曲、『Can you see? I’m SUSHI』がNHK Eテレ、総合、NHK-FM、ラジオ第二放送の『みんなのうた』で放送されています。ピコ太郎って、誰もけなさないし、Happyな笑いなんです。誰も傷つけない。そういう笑いでみんながhappyになったら嬉しいじゃないですか。
そして、講演ではいろんな人を応援したいです。自分のしたいことがある場合、くじけている暇があったら、次のことを考えたほうがいい。失敗してでもやってみたほうがいい。熱と愛を持って、できることをやったほうがいいというメッセージを伝えたいです。熱と愛があれば、負けることも苦じゃなくなります。それと、努力は無駄なものじゃないんです。人の努力は、放っておいても外ににじみ出て言葉や間に現れる。人って、不思議とそれを感じ取るんですよね。だから努力している人間の言葉はすっと入ってくるし、説得力がある。どんなチャレンジも無駄なものはないんだと、お伝えしたいです。
――取材・文:上阪 徹/写真:若松俊之/編集:鈴木 ちづる
ま す
古坂大魔王こさかだいまおう
ピコ太郎のプロデューサー
1992年 お笑い芸人「底ぬけAIR-LINE」 でデビュー。現在は、バラエティ番組への出演やSCANDAL、mihimaruGT、AAAなどとのコラボ、楽曲制作。また2016年8月にピコ太郎のプロデ…
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