18年間のプロ野球生活を、2023年秋に終えた松田宣浩さん。ドラフト1位で入団した福岡ソフトバンクホークスでは新人ながら開幕1軍を果たし、3年目からは3塁手のレギュラーに定着。若手時代には、5度の骨折を経ながらも、復帰。常勝軍団だったチームの6度のリーグ制覇、7度の日本一に貢献した。2023年のシーズンは、読売ジャイアンツに移籍。若手との交流も話題になる中、現役生活を終えた。
福岡ソフトバンクホークスでは、チームリーダーとしても徐々に頭角を現し、2014年には選手会長に就任。2015年のチームスローガン「熱男」は、後に松田選手の愛称の一つとして呼ばれるようになった。試合中にベンチで声を出し、選手たちを鼓舞するだけでなく、ホームランを打った際、ベンチ前で「あ〜つおぉぉ〜」と叫びながら握り拳を突き上げるパフォーマンスは、球場を大いに沸かせた。
打者として通算1832安打、301本塁打、991打点をプロ18年で積み上げ、守備でも通算8度のゴールデン・グラブ賞を受賞。その活躍ぶりから、侍ジャパンとしても2013年、2017年のWBCに出場した。まさに日本を代表するプロ野球選手の一人。一流になるためには何が必要になるのか?モチベーションを上げるためのコツとは?
日本を熱くしてくれる講演に期待が集まっている。
何より考えたのは、長く野球をやること
――滋賀県に生まれ、地元のクラブチームに所属。高校は愛知県の中京高校、大学は東京の亜細亜大学に進みました。そもそも野球をするようになったきっかけとは?
父が甲子園球児だったということを、小さいことから聞かされていました。実は小学校に入る前までは水泳に夢中になっていたんですが、小学校2年から双子の兄とともに父と3人で野球をやるようになりました。
入った地元のチームはそんなに強いわけではなかったんですが、小学校5年、6年と県大会の常連になるんですね。このあたりで勝つ喜びを知ることになりました。チームで目立っていた双子の兄と僕は、松田ツインズと呼ばれていました。
中学で野球をやるとなると普通はみんな軟式野球の部活を考えるんですが、父のアドバイスで隣町の硬式野球のクラブチームに入りました。これが、とても良かった。硬球は最初は怖かったですが、すぐに慣れましたし、卒業前に多くの高校から誘いを受けました。
高校で中京高校に行ったのは、寮生活がしてみたかったからなんです。兄と2人、親元を離れてみたかったんですね。でも、寮に入って2日目でびっくりすることになります。自分たちで洗濯をしないといけない(笑)。なるほど、そうだよな、と思って。寮生活は大変でしたが、自分で自分のことをしっかりやる、という大きな学びになりました。
高校2年の夏、甲子園に出場しました。3年の春と夏も出られると思っていたんですが、人生は甘くありませんでした。でも、1度だけでも出られて良かったと思っています。
プロ野球を意識するようになったのは、大学に入ってからです。中学でも高校でも、後にプロ入りして活躍する、すごい選手たちを見ていました。身体の大きさも違っていて、レベルの違いを感じざるを得ませんでした。
ところが、プロをたくさん輩出していて、その年の全日本大学野球で優勝する亜細亜大学で、僕は1年生からレギュラーを任されたんです。大学日本代表にも選んでもらって、この先しっかり練習すれば、もしかしたらプロを狙ってもいいのかな、と思いました。
厳しい練習で知られる大学でした。でも、僕はとにかくこなしました。実は野球の技術に関しては、多くの選手がそう変わりないと感じていました。問われてくるのは、気持ちであり、練習に耐えていく体力。体力さえつけば、技術は後からついてくる、と。だから、何も言わずに厳しい練習をこなすことが、一番の近道だと考えていました。
プロに入ったら練習はキツかったですが、大学時代はもっとキツかった。頑張って良かったと思いましたね。
――そしてドラフトで福岡ソフトバンクホークスを逆指名。ホークスで17年、読売ジャイアンツで1年、40歳まで合計18年という現役生活を送られることになりました。
ホークスを選んだのは、実は本拠地が行ったことのないところだったからなんです。故郷は関西、高校で中部、大学で関東、あとは九州かな、と(笑)。縁もゆかりもなく、知り合いもいないところからのスタートでした。
新人の開幕スタメンは、小久保裕紀さん以来、12年ぶりでした。でも、ドラフト1位で入ったわけですから、これは狙っていたんです。そのための準備をしていました。
ただこの年、僕は夏以降を2軍で過ごしました。思うような結果も出せなかったし、新人王も取れなかった。でも、結果的にそれは良かったと思っています。できなかったおかげで、満足せず、また激しい練習に励むことができたからです。
3年目からは1軍に定着しましたが、若い頃は手に5度の骨折をしています。デッドボールでした。野球選手にとって手の骨折は致命的です。復帰までに3ヵ月はかかる。でも、「お前なら、また這い上がれる」とまわりの人に言ってもらい、頑張ることができました。
投げやりにならず、1日1日、できることをやろう、無駄にせずに過ごそうと心掛けていました。そうしたら、這い上がることができました。
プロに入ったとき、何より考えたのは、長く野球をやることでした。数字にこだわる選手もいますが、僕はこだわったことがありません。とにかく長くやりたい、息の長い選手になりたいと思っていました。
そのためにはどうしたらいいかを考えました。一つは、強い身体を作ること。そして、もう一つは、チームから必要とされる選手になることです。
若い頃は、とにかく一生懸命やっていただけですが、転機は2012年に訪れました。前年まで、チームのムードメーカーだった川崎宗則さんが大リーグに行ってしまったんです。2011年のオフ、川崎さんに呼ばれ、「オレの代わりをやれ」と言われました。
明るいキャラになったのは、ここからです。実は自分なりに明るさを作り、キャラを演じていました。ユニフォームを着たら、スイッチを入れるようになりました。
声を出す選手の存在は、チームには大きいです。技術は相手とも、そうは変わらない。そんな中で、どうチームにプラスアルファの強さをもたらせるか。声を出したり、ムードを作っていくのも、その一つになる。
これが、後の「熱男」につながっていくんです。
若い選手には、自分から歩み寄ることが大事
――「熱男」として、全身で熱く引っ張るイメージが強いですが、ご自身でモチベーションをあげるために大切にしてきたことはどんなことですか?
これは若い頃からそうでしたが、常に先を見るようにしていました。その日ではなく、5年後、10年後、15年後のことを考える。そのときに、どんな選手でいたいか。そうなるためには、何ができるのか。40歳まで野球を続ける、というのも早くから考えていたことでした。
目の前の勝負も、もちろん大事ですが、そんな現実ばかりを見ていたら、案外、心はキツくなるものです。だから、楽しい未来を想像する。そうすることで、自分の楽しみが持てる。ワクワクできる。こうなっていたい、と思える。だから、日々も頑張れる。
プロ野球選手は、カレンダーが決まっています。やらなければいけないことも押し寄せます。やることがたくさんある。でも、いい感じで打っている瞬間や、お客さんが喜んでくれるイメージを浮かべたら、ポジティブな気持ちになれます。最高の感覚や喜びを常にイメージしていましたね。
もちろん、うまくいくときばかりではありません。ケガもそうです。でも、あの舞台にまた行けるぞ、とイメージする。光は見えているんだから、挑戦するぞ、あきらめないぞ、と自分に言い聞かせる。
実際には、現実は厳しいです。骨折が治った3ヵ月後、もう居場所はないかもしれない。プレッシャーはかかるし、心配も恐怖も押し寄せる。そういうときには、思い切り現実を見つめてしまうことにしていました。
恐怖から目を背けない。逃げない。とにかく頑張る。チャレンジする。やれることをやる。そうやって、過ごしていったんです。
普段も、好不調はあります。結果が出なかったら、2軍に落とされるかもしれない、という恐怖に襲われる。だから、いつもと違うことをやりたくなったりする。
だから僕が意識していたのは、同じことをやり続けることでした。いいときも、悪いときも、身体の整え方や試合までの準備の方法を変えない。いつも同じことをする。実はプロで結果を残してきた選手は、いつも同じことをやっていると思います。
大ベテランの先輩方の背中を見ていて、僕が学んだことでした。好不調があっても、やるべきことは変えない。ルーティン化する。ありがたい学びでした。
――読売ジャイアンツに入団後は、入団したばかりの選手とコミュニケーションを取るシーンをよく見ました。若い選手とのコミュニケーションやモチベーションアップでのコツはありますか?
ジャイアンツでの最後の1年間は、結果を出せませんでした。2軍で若い選手たちと過ごすことになりましたが、この経験も大きかったです。
たまたま巨人の同期入団になったわけですが、僕より20歳前後も年下。ただ、同じ野球選手として、僕は年齢は関係ないと思っていました。だから意識していたのは、若い選手と同じ年齢になろうとすることでした。
18歳なり、22歳なり、選手と同じ目線でしゃべる。同じ考えに近づこうとする。18歳、22歳に、40歳の僕が合わせる。歩み寄るんです。僕は自分の子どもと過ごすときにも、そうしています。合わせようという意識が大事だと思っています。
ベンチで若い選手は、どんな行動を取っているか。自分も同じようにする。40歳のベテランだからと、ベンチの奥にどっかり座るのではなく、前に出てきて選手と同じように声を出す。同じチームメイトなんです。
ただ、僕はコーチでもないし、監督でもない。指導者ではありません。バットが下がっている、などと指導をするのは、コーチであり、監督の仕事です。
一方で、若い選手が聞いてくることには答えます。「打席でどこを見ているんですか?」「何を考えているんですか?」などと問われたら、答える。一つの経験として語る。指導者ではない、ということは常に意識していましたね。
僕が言ったことについて、選手はおそらくすぐにはわからないと思います。でも、ちょっと違うところからのスパイスは、選手にとって意味があると僕は思っていました。少しでも、いい方向に変わってくれたらな、と感じていました。
あと、よく言っていたことは、どうせ野球をやるなら、楽しくやろう、ということです。クールにカッコ良くやる野球もありますが、少年野球のように熱くガムシャラにガツガツやる野球もある。
球団のカラーもありますが、その垣根を越えてでも、自分流の野球をやったほうがいいよ、元気を出して野球をやってもいいよ、ということです。そうすることで、見えてくる景色があるからです。技術以外のところでも、存在感を示せる。
先輩と後輩の関係は、やっぱり時代で大きく変わってきたと思います。昔は、かなり距離があった。そういう時代だったということです。
でも、今は違う。先輩から後輩に近づいていったほうがいい。そのほうがお互いに楽しいし、学びがある。そしてチームで動くわけですから、チームの結果にもつながります。
時間の使い方が、すべてを決める
――プロ野球は「走攻守、そして声」の4拍子が必要だ、とおっしゃっています。「熱男」としてもそうですが、「声」の重要性について教えてください。
声は、自分の居場所を示す一番の武器だと思っています。大きな声を出す、明るい声を出す。2011年のオフに川崎さんに言われ、2012年から自分でやり始めるわけですが、本当にやってみて良かったと思える取り組みの一つでした。
打って走って守るの3拍子での野球選手のレベルは、実はそれほど大きくは変わらない。でも、ここに「声」が加わってきたらどうか。しかも、声はチームを大きく変えます。ベンチの中の声は、想像以上に大きなインパクトを持っている。
チームが盛り上がっていて、みんなが声を出しているときはいいんです。何かがあって沈んでしまったり、人が声を出していないときに、率先して声を出せるか。そうすることで、雰囲気が変わる。よし、やってやろう、という空気が生まれる。
これは会社でも同じだと思いますが、チームでやっているわけです。個人スポーツではないんです。結束力も生まれるし、団結力も生まれる。
これも会社も同じだと思いますが、野球は瞬時に結果が出るものではないんですね。試合は3時間以上かかる。長い時間があるから、いろいろなことが起こる。初回に点を取られても、9回まで逆転のチャンスはある。そんな中、声がムードを変えてくれたりするんです。
恥ずかしがらなくていいと思います。演じればいいんです。僕もそうでした。そのときだけ、そういう自分を演じる。でも、そうすることで、目立つ。プロ野球選手は、目立ってナンボですから、会社も同じじゃないでしょうか。
――18年間のプロ野球生活で得たものとは、どのようなものでしょうか?
結局のところ、時間の使い方が、すべてを決めるということです。誰しも24時間しかない。それを、どううまく使うかが、人生を決める。時間の使い方が一番難しいんです。これが、差を作る。
そして、目標の大切さです。僕は5年、10年、15年先をずっと見据えていました。だから、頑張れたし、結果を出せたのだと思っています。また、40歳という目標を作っていたことが、野球人生にとってはとても大きな意味を持ちました。
ホークス一筋で17年目で引退しておけばよかったじゃないか、という声もありました。でも、もしそのまま終わっていたら、僕は間違いなく後悔していたと思います。
40歳まで現役を続けることが、僕の目標だったからです。17年目、僕はまだ39歳だった。そこで辞めていたら、どうして40歳をホークスで迎えることができなかったか。どうしてもう一年できなかったか。僕はずっと苦しんだと思います。
だから、ホークスで辞めるという選択はありませんでした。そんなとき、ジャイアンツから選んでもらえた。18年目の1年間は結果を出せませんでした。でも、暑い夏を若い選手と過ごすなど、自分の中でやり抜いたという気持ちがあります。プロ野球選手としての集大成の1年でした。
だから、ユニフォームを脱いだときも、プロ野球人生にまったく後悔がありませんでした。野球物語は自分の中で終わったという、やり切った感で一杯でした。
40歳という山の頂きがそこに見えるのに、あと1歩のところで到達を諦めてしまう。そういう自分でなくて、本当に良かったと思っています。
東京ドームでの引退式も、盛大に行っていただけて、万感の思いでした。これが1年前だったら、きっとそうは思えなかった。本当に幸せな野球人生でした。
――王貞治監督、工藤公康監督、原辰徳監督から、記憶に残る学びはありますか?
新人時代、王監督に言われた言葉は忘れられないですね。プロ野球は143試合あるから選手としては気を抜いてしまう試合もあるかもしれない。でも、ファンの中には、その1試合しか来ることができない人もいる。だからこそ、1試合も手を抜くことはしてはいけないという使命感を持ってやりなさい、と。この言葉をプロに入ってすぐに聞けたことは、本当に大きなことだったと思います。
工藤監督に学んだのは、チャレンジスピリット。そして、練習は嘘をつかない、ということです。ものすごい練習をされた方ですが、まさにそうだと思いました。準備と練習、努力が結果を生むんです。
原監督に学んだのは、ジャイアンツにプライドを持て、という言葉です。歴史ある伝統球団は、やはり本当にやりがいがあると思いました。一度はユニフォームを着てみたいという選手が多い気持ちがよくわかりました。
――最後に、いろんな道でチャレンジする人に向けて、メッセージをお願いします。
熱く野球をしてきて、「熱男」という言葉に出会って、僕の野球人生は本当に充実したと思っています。熱く生きることの素晴らしい体験を、「熱男」魂全開で、お話しできればと思います。きっと、皆さんの仕事に、人生に、大いにプラスになると思います。
どうせ生きるなら、どうせ同じ時間を過ごすなら、熱いほうがいい。どうせやるなら、熱いほうがいい。熱く行きましょう。
企画:中村潤一・細野潤一/取材・文:上阪徹/編集:講演依頼.com新聞編集部
(2023年12月 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
松田宣浩まつだのぶひろ
元プロ野球選手
滋賀県草津市出身。小学校2年生の時から野球をはじめ、中京高校時代は二年生の時、双子の兄とともに第82回全国高等学校野球選手権大会に出場。亜細亜大学を経て、2006年に福岡ソフトバンクホークスに入団。 …
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