映画衣裳デザイナーとして活躍する黒澤和子さん。1954年、黒澤明の長女として生まれ、伊東衣服研究所デザイン科卒業後、デザイン会社を設立。ファッション・デザインに従事。90年の『夢』から黒澤組に衣裳担当として参加し、以降 『八月の狂詩曲』、『まあだだよ』と衣裳を担当。最近では、『武士の一分』『どろろ』『明日への遺言』『歩いても歩いても』の衣裳デザインをおこなっています。
今回はそんな黒澤さんに、父黒澤明と家族を紹介してもらいながら、現代の家族に思うこと、ご自身の仕事観、又映画とともに生きる人生についてお話をお伺いしました。
母の最期の言葉は「黒澤明に負けるなよ」
― 一般の方は映画監督・黒澤明さんに関してはイメージがあると思いますが、
ご家庭ではどのような方だったのですか?黒澤家でのご様子などお話を伺えますか?
父は、とにかく家でご飯を食べる事が好きな人で、外で飲んで帰ってくる、なんて事がなかったので、お客さんは映画人、芸能界の人もいるし、芸能界と全然関係ない人もいるし…。母は勿論、子供の私も毎日相当な人数の食事を作るのに忙しい。私は小学校2年生の時から料理をしています。毎日とにかく馬鹿みたいにお客さんが訪ねてきて、私はものすごい量のお手伝いをしていました。それに、全てにおいて、フェアー。年齢、性別、年収も職種もそういうことは何にも考えずに人付き合いをする親でしたから、ある日はイタリアのセレブ夫婦がうちに来ていたかと思えば、たまたま隣に住んでいたオジチャンとオバチャンが来ていたりとか。全然関係なかったんです(笑)。映画スタッフの人数なんて考えるだけでもすごい人数でしょ?随分と色んな人が出入りをしていました。それに父の仕事がら、映画の内容によっては、脅迫まがいのいたずらもあり、「娘を誘拐するぞ」というものもあったようです。だから私が小学生の頃は、学校以外は外出禁止になってしまったこともありました。映画とは切り離せない家庭でしたし、話せば色々とありますよ(笑)。
―お母様はどのような方でしたか?
竹を割ったような人で、負けず嫌い。黒澤明も強い人でしたが、母も強かった。語調や使う言葉も二人とも強烈。父が負けず嫌いで、ああやって頑張って映画を撮ってきた人だから、弱い妻じゃ務まらない。 父は才能があって私が生まれる前からドンドン頭角を現していったわけでしょ。母も『姿三四郎』あたりから主婦のプロになろうって決めたんだと思いますよ。むしろ「家のことは自分が全部やってやるから、その代わりもっといい映画作らなかったらお前バカだ。」くらいに思っていたと思います(笑)。でも、奥さんに洋服も買ってもらって、ご飯も作ってもらって、親戚との付き合いから何もかもやってもらって、仕事だけしてていいよって言われて、それで旦那さんが仕事できなかったらどう思うかって話ですよね。私もときどき語調が強いと言われることもありますけど、何しろ強い人間ばかりの家で育ってしまったわけです。黒澤家は皆負けず嫌いですし。 母の私への最期の言葉は「黒澤明に負けるなよ」って。そう言って死んだのよ。
―黒澤監督も、少女時代の和子さんと一緒に絵を描いてくれたり、赤を入れてくれたそうですね?
それはね、母が私を置いていっちゃった時、父が私と遊ぶのに困って、仕方ないから絵を描いていただけなんですよ(笑)。だいたい面白がってやれることしかしない人ですし、自分のほうが夢中になっていたわけ。私の作った物語に赤入れ?それも仕事柄っていったら変だけど、誰のものだって赤を入れたと思います。皆さんインタビューとかで「いいお父さんだったよね」という話に帰結したがりますが、正直私の場合そんなのちっとも関係ない。私自身、すっごく不良だった時期もあります。反発するのが当たり前。親は全部映画に頭を奪われちゃって、 父は映画を撮ることしか考えてないわけだし、母だって手一杯。いくら子供のことを考えてると言ったって、人間のできる範囲なんて決まってるんですよ。何か相談をしても、最後には「アンタだって黒澤の血を引いてるんでしょ、自分で考えろ」と言われておしまいでした。 とにかく映画が中心にあった家。我が家には決まりがあって、父の仕事中はどんなに撮影期間が長くても、人の生き死にに関係する以外、絶対に電話を掛けてはいけなかったんです。「声を聞いたら里心がつくから」という、元来心配性の父の理由で。
だから私が思うことは、やっぱり人間には与えられた家があるということなんですよ。そこに生まれちゃったんだからしょうがない。とんでもない家だったけれど、そこでちゃんと知恵もついたし、工夫もできた。そうやって強く生き抜いてこれて、そのあと女1人で3人も息子を育てて、ある程度の映画衣裳デザイナーの地位まで頑張っていけたのは、やっぱり、負けず嫌いのおかげなんです。もう黒澤家の中の全員が競争しているわけですよ。家の中で(笑)。全然、家の中が安住の地なんかじゃない。「自分で考えろよ。どうにか工夫しろ」って言われちゃったら、それは自分で強くなってどうにかするしかないわけでしょ?黒澤明は家でも映画監督黒澤明なんですよ。そんな家で生きていくには、自分で強くなるしかなかったんです。
家族は困難を乗り越えてこそ“同士”になれる
―娘である和子さんに、「強くなれ、自分で考えろ」と言う現実の中、
黒澤さんがお父様、お母様を見ていて感じていた事をもう少しお聞かせいただけますか?
別に品行方正ないい親ではないけれど、やっぱり身をもってやっている姿が見えるわけですよ。映画に魂を捧げて、必死でそのために働いている父と、それを必死に支えようとして、少しでもいい笑顔を作ろうと努力しながら、父に尽くしている母がいる。勿論子供にとっては不満なことは一杯あります。それでも一心不乱に一生懸命な姿っていうのは見られるわけですね。そうすると子供もそんな馬鹿じゃない。その「一生懸命に≪本物≫を追い求める姿」を見ていると、単に映画だけじゃなくて、そのパッションを心で感じることができるし、それが自分の生き方にもちゃんと流用できるんですよ。それに、夢中になって必死にいい物を作ろうと思ってるからこそ、家の中でもいろんな言葉が飛び交うんです。その言葉一つ一つの中には、キラキラ輝いてるものがある。もちろん、イコール子供に言ってることではありません。自分が興奮して映画のことを話してるだけなんですが、子供心にそこから感じるものってあるじゃない?
だからどんな仕事についていたって、その仕事を自分が楽しくやっている親であれば、家に帰ってきて、何でもいいから話してあげればいいと思います。教育論とかね、難しいことだけじゃない、親から肌で感じるものがあるかどうかは大切だと思いますね。
―形じゃない、肌で感じる部分が大切だということですね。
そう。実は自分の家庭のことで文句を言う人って少なくないと思うんだけど、実際にその文句を言っている人達ほど平均的で、普通で、それほどの問題がない家庭が多いような気がするんですよ。その人達にとっては問題なんだろうし、比べる事はできないけれど、乗り越えてないからじゃないかな、って思うことがあるんです。私の家族はね、“同士”なのよ。必死に皆で乗り越えてきたから。ただ家族ってだけじゃなくて同士にならなきゃ伝わらないところってあるでしょ。共に難関を乗り越えるからこそ、お互いに一緒にやってきたって気持ちになるわけじゃない。最初の方にも言ったけど、皆で正月に70人前の料理を作るのを、小学生から手伝ってたりね(笑)。時間だってね、撮影に入ってしまえば昼夜が逆転している時だってあるぐらいだし、ばらばらの生活。そんな家庭の中、私は学校に通うんですよ。それが日常でもあった。だから、私はトンデモない親と過ごし、一緒に支え合って、子供の頃からもう膨大な量の労働があったりするわけ。本当に乗り越えてきたというしかない生活だったの。
― 一緒に乗り越えていくから絆が強まるわけですね。ただ一方で、難関を前にした時、 逆にバラバラに崩壊する家族もあると思います。その差はどこにあると思いますか?
日本人て何でも枠で物を考えるでしょう。それが物事をますますややこしくすると思うことがあります。たとえば、化粧だって、よくクレンジングして、スクラブして肌を柔らかくしなかったら、化粧水も乳液も浸透しないでしょ?ただ上に塗ってキレイに見せてもしょうがないんです。家族も同じで、何か問題があると、とにかく早く表面だけでも枠にはめて解決したがるんですよ。誰々が悪い、誰は良いって決めることに早くいっちゃうんです。極端な例ですが、息子がすごくグレちゃったとする。お父さんが「おまえがちゃんと見てないからだ。」ってお母さんに言うと、他の家族も、なんかそのお母さんが悪いということで、話をまとめちゃうとかね。でも物事っていろんな局面があるわけだから、そんなに簡単に何が悪いとか、誰が悪いとか決める事ってできないはずなんですよ。だから少々問題があったって、何の枠にも納まらないまま行ったっていいんじゃないかな、て。「こうあるべき」なんて通らないことだって多いわけだし。それぐらいの心の余裕っていうのかな、相手や問題をそのまま受け入れられたり、惑わされないで進んじゃうぐらいでいられるか、どうかっていう。考え方なんでしょうけれど、それが出来るかどうかで違うと思いますね。
―納まらないままでいいんですね。家族関係で“正解”はないと思いますし…。
煮詰まってきた状態の時に息子が大変だから、娘がこうだから、旦那がああだからってお互いのせいにしないで、それぞれの自分は何なのか考えればいいと思うんですよ。さっきも話したように、平均に限りなく近い人が不満を言っているのね。ものすごく大変だったら、その対応に自分が追われてるはずだから、文句を言っている暇も無いんですよ、実際。第一、ああだこうだ平均的に生きようって、チャンチャラおかしいって私は思いますけどね(笑)。両親の年収いくらぐらいで、ある程度の車を持っていて、平均的な間取りの家に住めて、年に1回家族で旅行に行けてなんて、皆がそんな人生一緒だったら小説とか、映画なんてできないですし。すごくいろんな環境があるから人生なんで。そういうところは我が家は皆それぞれの人生なんですよ。知ったこっちゃないっていうところがある(笑)。でも心がバラバラなわけじゃない。父は父の人生をいって、母は父のサポートっていう人生を選んで、兄は兄。それぞれ自分が選んできた仕事だし、人生。自分が選んだ人生を楽しく、一生懸命になるにはどうするかを考える。 一生懸命になれば何でも楽しくなるんですよ。どんなに文句を言ったって、適当に押し付けられて、人生をやらされているなんて事はないですよね?人のせいじゃないんですよ。
―和子さん自身が、お子さん達にこれだけは伝えているというものはありますか?
やっぱり父の時代には、そんなにストレートに言葉で表現することはないじゃない。明治の時代の人だから。だけど、すっごい子煩悩で、本当に家族は大事だってのは、ヒシヒシと伝わってきてたから、それはそれで良かった。ただ私の世代ではもっと言葉にしたほうがいいだろうって思い、私はそういう風にしています。子供には「命を捧げてもいい。あなた達が本当に幸せで、本当に嬉しくって、楽しくって、素敵な人生を生きられて、ともかく、健康で怪我無くいてくれるんだったら、お母さんはそのためだったら命を捧げてもいい」ってね。 あともう一つ「どんなことが起こっても、這ってでも、何かがあったら、お母さんはあなた達を助けに行くから」っていうことも。この2つだけをずーっと子供の時から言ってきました。たとえば、どんな地震が起きても、もう自分の足の1本や2本折れたって、もう這いずってでも助けに行くから信じてくれっていう風にずっと育てていって、それ以外はもうどうでもいいよって。だって人は言わなきゃ分からない。大事な事は特に。
黒澤和子今後の挑戦-死ぬ時まで「ギリギリの女」でいたい
―衣裳デザイナー・黒澤和子さんの話を伺いたいと思います。お母様が亡くなられてすぐ、 監督の薦めで黒澤組に入ったとお聞きしていますが、娘として映画衣装の仕事をする際に
戸惑いはありましたか?
映画の世界で働くなんて思ってもみなかったことですが、抵抗はなかったですね。でも、やっぱりはじめは「お嬢様に何ができるんだ?」って皆が思うじゃない?だからこそ、人の10倍働けばやったって思ってくれるかと思ってね。半年くらい一緒に働いてからですね、すごく認めてくれるようになった。やっぱり実際にやったか、やんないかだけなんですよ。映画の仕事は映ってナンボの世界。言い訳はきかない。よく映ったか映らないかの話で終わってしまうから、具体的にやるしかないんですよ。それに映画界は、フリーの人がほとんどだから、いい仕事をしない限り、次は声がかからないという現実があります。だから皆必死なんです。人の2倍やるぐらいじゃ足りないので、私は人の10倍やりました。
最近はできなかった事を言い訳したり、口でカバーしたり、ノリで持っていこうとする人がいるけど…。でもね、人に認められるには結果を出す。やるかどうかの世界だと私は思います。私の場合、映画界で働くことに戸惑うより、負けず嫌いの血が騒いだんですかね(笑)。始めてしまえば、やってやろうじゃないの、ともう夢中になってしまいました。
―子供の頃から、お父様をはじめとする映画人と接しながら育った経験は、 今の仕事に活かされていますか?
客観的になれたことが大きいですね。いつも自分の頭の上で離れて自分を見てる自分が、子供の時からいました。たぶん、そうしていないとやってられないんですよ。周りのほとんどの人がアーティストだったし、アーティストって自分の世界があるでしょ。黒澤家で、私は“取り締まり係”っていうのがポジション(笑)。やっぱり父を支えなきゃいけない年月が長かった分、父の運転手、料理番、秘書もやったし、自分の子供達の母親業も一緒にやってきた。そこでは客観的であることが、すごく大事だったんですよ。家に映画の黄金時代の人達をいっぱい連れてきて、常に映画の話しかしてなかった父。三船敏郎さん、志村喬さんが座ってて、スタッフが何十人も車座に座ってるのが黒澤組の宴会。そこで育ってきたから、映画の世界の今で言う“空気感”はものすごい知ってます。だから、どの現場に行っても、どう立ち回ったらいいかっていうのが身についています。具体的にこの現場全体のなかで、自分がどこに立って、どう考えて、どう動いていることが大事だっていうのが分かるんですよ。仕事をする上でそれはすごく役立った。私よりもデザイン画が上手いデザイナーもたくさんいるけれど、映画を作る○○組、○△組って中で、どのポジションでやればいいかっていうのが私には瞬時にわかる。仕事ってそれぞれ役割があるはずなんですよ。それが分かるかどうか。その部分は活かされていますね。
―仕事をする上で大切にされていることはありますか?
「好きなものが見つかったら、自分から一生懸命夢中になる」っていうのが父の言葉です。でも確かにそうだと思うんですよ。好きで一生懸命だったらね、どんどん突き進めるものですし。仕事もね、自分から楽しめるように工夫していかなきゃだめですね。面白くする一番上手なやり方は、夢中になっちゃうってことだって、よく父が言っていました。 でも、好きなだけでは行けない時もあります。絶対に追い詰まる時はきます。でもそこで辞めないことですよね。頑張って、頑張って、その壁を開くことが出来れば、また面白くなるものです。そのくり返しが人生だよって、父も言っていました。 どっちにしたって、追い詰まったり、苦労するんだったら、工夫をして、自分で面白くしていけばいい。
実は、父だって、仕事をしない時は全くしないんですよ。緩急はっきりさせて休む時は休む。年をとってからは、「サボるのも思い切って正々堂々とした方がいい。」と言っていましたし。でもやる時はやる。その集中力は凄いものがありました。それは私も受け継いでいます。切り替えが出来ればいいと思いますよ。それがね、だらだらと何となくやっていたら、それこそいい仕事なんて出来ないですよ。しっかり休んで、私は本当に何もしない時もあるんですが、そういう時間をちゃんと作るとね、自然と仕事しなきゃいけない気になってくるもんです。まずい、働かねば、ってね(笑)。
― 最後になりますが、和子さんの今後のことと、講演で伝えたいメッセージを聞かせてください。
私は“潔い”って言葉がすごく好きなんです。みんな普通に生まれて、死んでいくわけでしょ。でも、そこで自分の人生に保険をかけて、踏み外さないようにって考えるほど及び腰になるんですよ。例えばね、テレビ番組を見て、「私はあの病気じゃないかしら」って検査に行ったり、「こんな保険に入ってなかった」と不安になったり、「子供にこういう勉強をさせておかなきゃ」と焦ったり…。人間って守りに入ると実は辛いんですよ。守っているつもりが、守られること(保険)探しに縛られてしまう。
だから私はあまり守らないで生きたいなと思うんですよ。友達は私を「ギリギリの女」って言うんですが、本当にギリギリで、毎日挑戦の連続(笑)。それでも攻撃的に生きていきたいんですよ。自分が強くなるのが一番の保険だと思うので。今映画の仕事以外で挑戦したいなと思うことは…老後。70歳とかになったら、いつ死んでもいいから携帯1個だけ持って、稼いだお金で流浪の旅に出たいですね。イタリアとか、ゴビ砂漠とか、その時々で様々なところをうろつきまわって。「今、お母さんサハラ砂漠の真ん中にいて夕陽を見てるのよ」とか家族に電話してね。「インドで今バスに飛び乗ったところ。」とか(笑)常に新しい局面に出会って、いろんなところを見てまわって、そういう老後もありかなって思ってるんですよ。ギリギリでいくほうが、頭も年とらないし、潔いかなって思っています。
講演では、今までお話したようなとんでもない家族の中で今日まで生き抜いてきた話と自分の生活の中で、役に立った事とかをお話したいですね。ちょっと変わった映画の世界の話とか。それと、皆さん守らないで生きる方が楽ですよって(笑)。
―本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきましてありがとうございました。
文:佐野裕 /写真:上原深音 /編集:鈴木ちづる (2008年5月27日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
黒澤和子くろさわかずこ
映画衣裳デザイナー
1954年、黒澤明の長女として東京に生まれる。サン・デザイン研究所にてスタイリストの勉強をした後、伊東衣服研究所デザイン科に入学。卒業後はデザイン会社を設立しファッション・デザインに従事する。74年株…
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