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選手として、監督として、ライターとして  ―スポーツと歩んできた人生―

青島健太

青島健太

スポーツライター

社会人から遅咲きのプロ野球デビュー。現役引退後は単身オーストラリアへ渡って日本語教師となり、帰国後はスポーツライターへと転身した青島健太さん。さらに、社会人野球の監督として指揮を執りチームを優勝に導くなど指導手腕を発揮されました。

次々と未知の分野にチャレンジする原動力は一体どこから湧いてくるのか。さらに、人を育て活力ある強い組織をつくるには、どうしたらよいのか?プレイヤーとして、ライターとして、そして監督経験者として、それぞれの立場からのリーダーシップや組織論もおうかがいしました。

野球に魅せられて―「医学部より“野球部”」―

――小学4年で少年野球を始め、中、高、大、そして社会人と、まさに野球一筋ですが、プロを意識されたのはいつごろだったのでしょうか。

「これでも文武両道でして(笑)、そこそこ勉強もできたんですよ。親戚には医者が多かったので、中学の頃は僕自身も医学部志望を決めていました。だから、実は春日部高校に進んだ時は野球をやるつもりはなかったんです。ところが勉強一本のつもりで選んだのに、入学早々に野球部に入部してしまった(笑)。なぜでしょうね…『野球がそうさせた』としか言いようがないんですよ。“魔性の力”みたいなものに惹きつけられたんだと思います。入部したのは部員10人ほどの小さなチーム。その分、1年生の時から試合に出させてもらったり、チームメイトに恵まれたこともあって、のびのびとした環境が良い方向へ作用していたんでしょうね。埼玉県代表になるなど結果を残すことができました。そういった小さな成功の積み重ねで、より野球に特化していきたいという気持ちが高校3年間で増幅されました。ですから、いよいよ進路選択という時には、『やっぱり医学部より“野球部”だろう!』と(笑)、六大学野球で有名な慶應大学へ進学を決めました。

 大学時代は2年からレギュラーになれて3年生の秋に新記録(東京六大学秋季リーグでは、1シーズンに6本塁打、22打点)も作ることができました。でも、まだその時は、野球を職業にするという決断はできなかったですね。それなら野球をやりながら仕事をしようと。それで社会人野球の名門・東芝に就職したんです」

――社会人野球を経て実際にプロ野球の世界に入られたのが26歳。高卒や大卒ルーキーが当然のプロ野球界にあって、かなりのチャレンジだったと推察します。

iv42_02「周囲からは当時、常軌を逸した“蛮行”と見られて、誰も“チャレンジ”とは呼んでくれませんでしたね(笑)。本音をお話すれば、あの時なぜ社会人を辞めてプロ入りを決意できたのかわからないんです。職場に関しても、広告部という良い部署で環境に不満はまったくありませんでした。ただ、都市対抗野球(社会人野球日本一を決める大会)で1年目に準優勝、3年目には優勝を経験できました。一般的に、社会人の野球部でメインで活動できるのは3年ほど。僕も4年目に現役を引退して仕事に就く、つまり競技としての野球に対してピリオドを打つ場面を迎えました。その時すでに26歳です。プロ野球界からすれば高卒や大卒の18歳、22歳の方が戦力としては魅力的です。でも、僕はプロ入りを決意していたんですね。ありがたいことにヤクルト(現東京ヤクルトスワローズ)にお声をかけていただいて、やらせてもらうことになりました。

あの時の心境をあえて言葉にするなら、人生を“掛け算”で作りたかったんだと思います。『1』やれば『1』増えることを積み上げていく堅実で確実な人生がある一方で、自分の働きかけに対して劇的に未来を変えていける、掛け算的に進行する人生に手応えを感じたかった。それまでの僕が歩んできた道は、野球で自分の進路を大きく変えられる人生で、最後もやはり野球を選んだということかもしれません。体が覚えている快感があったし、チームで難関を突破した時のなにものにも変えがたい高揚感や連帯感を忘れられなかったんですね」

――1985年にヤクルトスワローズに入団されて、同年5月11日の対阪神戦(神宮)でプロ野球史上20人目となる、公式戦初打席でホームランを放つ大活躍でした。

 「デビューは華々しかったんですけどね。そのあとが続きませんでした。年齢もあったのかもしれないけど、自分の場合は故障に泣かされました。馬力やスタミナが自分のセールスポイントだと思っていたのに、それを表現できない肉離れに年中襲われて、走ることもままならない。ストレスが溜まったし、苦しかったし、悔しかったですね。好調な時には、将来に対して良いイメージを描いて夢は膨らむけど、やはり自分が想定しない逆境やトラブルは必ず待っているものです。自分はその課題を乗り越えて結果を残す前にプロ野球をやめることになりました(89年かぎりで現役引退)」

 

プレーヤーからスポーツの魅力を伝える側へ

―――野球の現役プレーヤーとしてピリオドを打った後、どのような将来のビジョンを描いておられたのですか?

iv42_03「それまでは本当に野球一筋の人生でしたから、セカンドキャリアは、逆に野球に距離を置こうと決めましたね。引退して次のことをどうしようかなと考えた時に海外、特にオーストラリアでなにかをしたいと思ったんです。社会人時代に野球で訪れてとても大自然が素晴らしかったものですから。ただ、なにをすればいいのかがわからない。野球一筋だったので実務的な能力や技術はありません。大学時代に社会科の教員免許は取りましたが、日本の歴史をどこかで教えるとしても、もう1回勉強が必要です。すると、たまたま図書館で出会ったオーストラリア出身の男性に、多くのオーストラリアの人が日本語を熱心に勉強しているのに教師が不足していると聞きました。日本語なら僕だってネイティブスピーカーですから(笑)、これだ!と思いましたね。半年ほど日本語教師養成学校に行って教え方などを身につけました。その学校の紹介でオーストラリアに日本語教師として赴任したんです。ビクトリア州の州都メルボルンから電車で4時間ぐらい行った街にあるジュニアハイスクール(小・中が一緒)です」

――いよいよ野球から離れた新しい人生を歩み始めたんですね。

「ところが、そうもいかないのが僕の人生のようです(笑)。オーストラリアはスポーツ大国なんですね。広大な自然の中でゴルフ、テニス、クリケットなど老若男女の皆さんがそれぞれスポーツを楽しんでいる。そこに31歳の僕が『もうスポーツの現役は引退しました』なんて言っても笑われてしまうんです。『それはプロの選手を引退しただけでしょう』と。ですから、しょっちゅう色々なスポーツのお誘いを受けました。スポーツの世界から引退してオーストラリアへ渡ったのですが、奇しくも僕自身、野球以外のスポーツ経験が少なく、かつ理解が浅いことに気づかされました。全世界的な視点で見たら、まったく未熟なレベルだなと。結局、またしてもスポーツの魅力の前に屈してしまいましたね(笑)。

 日本ではある競技でトップレベルにあるプレイヤーが他のスポーツをすると、熱意や志が低いんじゃないかと疑われます。だからプロ野球の選手は野球オンリーにならざるをえません。でもオーストラリアで、たくさんのスポーツを初めて体験し、改めてスポーツって面白いなあと感じましたね。日本ではやれないオージールールのフットボール、ネットボール、クリケットなど、本当に楽しくてたまらなかったんです。初対面の相手と言葉でのコミュニケーションは十分でなくても、プレーで語れて、いい関係が構築できるんです。最高じゃないですか。 そこで『もっとこの世界に触れていたい』という気持ちが強まりました。ただ、自分は選手ではなくなった以上、今度はスポーツの魅力を表現してみたいと思うようになりました。英語がもう少し流暢ならオーストラリアで何か道を考えたんでしょうけど、感情や思想を英語で正確に表現するのにまだ苦労していました。たとえば『爽快さ』という言葉1つとっても、なかなか当てはまる英語のボキャブラリーがなかった。これではどうにももどかしい、と。やっぱり日本語で表現するしかないと思って帰国を決意したんです」

―――いまでこそスポーツジャーナリストの青島さんというイメージですが、プレーする側からメディアでスポーツを伝える側に回るのは、相当の苦労があったかと思われます。最初のきっかけはどのように掴まれたのでしょうか?

iv42_04「もちろん、やりたいからと言って、すぐにメディアの仕事に就けるとは思っていませんでした。まずは『書くこと』で表現することを入り口にしようと考えたんです。それで文藝春秋の雑誌『Number』の編集部を訪ねました。日本のスポーツ雑誌としては歴史も古く、最も有名な雑誌です。当時の編集長に僕が書く仕事を始めたいと伝えて、どうしたらいいですかと相談したんです。すると彼は『じゃあ、何でもいいから野球のことについて2千字前後でエッセイを書いて持ってきてください。いつでもかまいません』と言ってくださったんですね。僕は、そのあと帰宅したら、深夜までかかってワーッと書いたんです。せっかくのチャンスだし、これは勝負だと思ったので翌日すぐに持って行きました。その時に書いたテーマは『プロ野球をめざす少年たちよ、和式トイレを使え』です(笑)。なぜかといえば、自分自身が股関節が固いことに苦しんだんですよ。内野手は腰を下ろす必要がありますが、そこがウィークポイントになりました。それで、なぜ股関節が固いのかを考えたら、育った環境にあるのではと思ったんです。僕の家は集合住宅で、当時はまだ珍しい洋式トイレで育ったんです。今では当たり前ですけど、和式のようにフラットな位置にしゃがんで用を足すのは毎日の行為なので、それだけでもかなり鍛えられると着目しました。その原稿を編集長が気に入ってくれたんです。なんと直近のナンバーの巻頭のエッセイでドーンと載せてくれたんですよ。ここでも初打席初ホームランです(笑)。

1発目にその機会をもらったのは嬉しかったですね。あとはこの成功体験で、スポーツ系の媒体で書いてたら、主張やキャリアを含めてテレビの人達の目に止まってコメンテーターで何回か呼ばれるようになりました。すると、滑舌よくしゃべることが、いわゆるMC的な仕事やキャスター(NHK BSスポーツニュース)に発展したりとチャンスにつながっていったんです」

 

周回軌道上にいればやり方は問わない―青島流マネジメント術―

これまで、選手としてもライターとしても数多くの指導者の方を見てこられたと思うのですが、その中で、「指導者」に対する見方に変化はありましたか?

iv42_06「僕が現役選手だった時代は、“厳しさ”が指導の根幹にあり、やる気とか根性が強く求められる風潮が主流でした。恐怖とか理不尽な命令とか、先輩からもそういう指導が機能していた時代です。だからこそ、“志”が強く問われましたね。生半可な覚悟で務まる世界ではありません。ただそのおかげで僕はプレーヤーとして非常に鍛えられましたし、苛酷な環境を乗り越えてきた仲間との連体感も芽生えました。

 でも取材する側に回ると、風景が一変しましたね。少年野球のチームからプロの球団まで、トップレベルの指導者が実践している厳しさには理由や狙いがあったんです。簡単に言えば、ただ厳しいだけじゃなくて相手を見ながら手綱を強めたり弱めたりしているんですね。例えば、監督に叱られて『なにくそ!』と奮起する選手もいれば、逆に厳しくすることでやる気を失くしてしまうタイプもいるわけです。更に、叱られるタイミングや周囲の環境というのも重要ですしね。指導者は、相手の特性や能力を十分に測って、それぞれに対してどういう物言いやテーマ、負荷のかけ方が、その人を成長させるのに効果的なのかを見極めていることに気づきました。よくよく考えてみると、実は僕が現役時代に味わった厳しさの中にも、そういう狙いが発揮されていたんですね。当時は、監督と選手という立場でしか接点がないわけですから当然、気がつきもしませんでした。『管理なんかされてたまるか!』というタイプでしたから(笑)。でも、取材者という客観的な立場に変わって、初めて指導者の方の立場や思考が理解できるようになりました」

――2005年からの3年間、社会人野球の監督を経験されて、今度は指導者の立場になられました。実際、現場ではどのようなマネジメントや選手育成を行なわれていたのでしょうか?

「僕は自分のやり方を『超・放任主義』と言っていました(笑)。というのも、選手個人で感じることや、やってみたいこと、個性がいろいろあると思うんです。もちろんチームの和を乱したり、全体が向かっていることに対してブレーキを引く言動は許されないですよ。でも、こうやったら面白くなるとか、自分の力がもっと出るかも、と工夫をもって取り組む行為には『どんどんやってみたらいい』という姿勢でしたね。それをどう束ねるかに関しては、試合の時期や、要所で全員で確認し合ったりと、最終的に意思を統一すればいいんです。

  たとえるなら、“太陽系“みたいなものですね。“チームの勝利”という目的が“太陽”。その周囲を選手が周ると考えれば、外周が好きな人もいれば、内周が好きな人もいます。でも、無理やり『この軌道を周れ』と修正する必要はないんです。太陽を中心に、それぞれの周回軌道上を周ってさえいれば問題ない。そう考えて監督をしていましたね」

――セガサミーでは創部2年目にして都市対抗野球大会初出場を決めました。また、JABA千葉市長杯争奪野球大会でも優勝と、青島流マネジメントが奏功したのではないでしょうか。

「何より選手が頑張ってくれた結果ですし、一緒にやってくれたコーチが良い指導をしてくれて、僕はその上にドーンと乗っかっていただけなんです。個人的な満足感でいえば…いま振り返ると悔しい想いしかないですね。1年目から都市対抗の本大会出場のチャンスがありましたが掴みきれませんでしたから。もっとインパクトのあるデビューができたはずでしたから。そういった悔しさはあります。もちろん、指導者として現場に立たせていただく機会をいただいたのはありがたいの一言です。ただやはり、『言うは易し、行なうは難し』とはこのことで、取材している時には思わなかった難しさとか、感じる思いが現実的にはありましたね」

――例えばどんなことですか?

iv42_05「人が伸びる基本というのは、まず本人に熱い意志や志があって、それに必要なエネルギーがあるから動くのだと思うんです。その大前提が不備なままでは、いくら強く管理しても人は育たないでしょう。ですから僕は、どうやって各選手を“やる気のど真ん中”に置くかということがテーマでした。ただそれが非常に難しいんですね。どうすれば彼らのやる気が引き出されて、事に向き合えるのか。一生懸命に模索していました。それぞれの個性と特性を掴んで、いかにそいつを熱くさせるか。そのためにはチーム全体に物を言うのでは不十分だと感じていました。『超・放任』といっても、そこにだけはこだわって、日々格闘していましたね」

――球団という組織を内外から見つめてきた青島さんが考える『理想の監督像』とはどんなものでしょう?

 「人を動かし、導く方法は、いくつかあると思います。僕が現役時代の時に主流だった、『根性』を求めて、威厳や圧力で人を管理するやり方も、頑張りきれない人や、間違ったやり方をしている人に対しては有効です。叱咤して力を引き出す効果がありますから。あとは、ポジションや立場の力学が機能する場合もあります。『部長が言ってるからやらなきゃいけない』とか、そういった動機づけでも人は動きますからね。

  ただ、僕が考える一番強いリーダーシップは、リーダーとフォロワー(部下)が目的を共有したり共感したり、尊敬し合える関係です。その良い例が、今シーズン日本一になった西武ライオンズの渡辺久信監督です。彼は監督の立場にありながらも、若い選手の中に自ら飛び込んでいって、決して叱ったり威圧することなく務めてきた。プロとして一緒にお客さんを楽しませよう、面白い野球をしようという共通の意識をもって具体的な方法論を探ったんですね。ですから、厳しさやポジションで人を動かすよりも、1つの目的に対してイメージを共有し、お互いを尊重し合いながらメンバー一人ひとりが自分の頭で考えながら前へ進んでいく。そんな自律した組織を創造することが、リーダーとしては一番理想的じゃないかと考えています」

―本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきましてありがとうございました。

文:佐野裕 /写真・編集:上原深音(2008年12月22日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)

青島健太

青島健太

青島健太あおしまけんた

スポーツライター

1958年4月7日、新潟県新潟市生まれ。春日部高校、 慶応大、東芝と進み、昭和60年(1985)ヤクルトスワローズに入団。同年5月11日の対阪神戦(神宮)でプロ野球史上20人目となる、公式戦初打席でホ…

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