2004年のアテネオリンピック。日本男子体操のキャプテンとしてチームを牽引し、団体で28年ぶりとなる金メダルを獲得。種目別の鉄棒でも素晴らしい演技で銅メダルを獲得し、オリンピックで大きな成果を出したのが米田功さんです。
7歳から体操を始め、早くから頭角を現し、全国中学生大会で個人総合優勝。体操の名門・清風高校時代には、インターハイで個人総合2位に。その後、順天堂大学に進み、1997年の全日本学生選手権では個人総合2位という成績を収め、さらに1998年のNHK杯では個人総合優勝を果たします。
ところが、2000年のシドニーオリンピックの代表選考でまさかの落選。失意のどん底から4年、初めてのオリンピックとなるアテネオリンピックへ出場し、団体で金、個人で銅と2つのメダルを獲得するまでに自らを鼓舞したのでした。
大きな挫折からいかに這い上がったのか。体操選手として、どのように成長したのか。代表落選という苦境をいかに乗り越えたのか。そして金メダル獲得の裏側にあった秘話とは…。現在はメンタルトレーナーとして活躍するほか、体操教室を開き、子ども達に体操の楽しさを伝えている米田さんに、オリンピックへの思い、講演で伝えていきたいことなどをたっぷりとお話頂きました。
結果が出ないということは、頑張りが足りないということ
――体操を始めたきっかけは、意外な動機だったそうですね?
僕は子どもの頃、ひどい小児ぜんそくでした。身体も弱くて、このままでは小学校に入ったらイジメに遭うのではないかと心配した母が、スポーツを習うことを勧めてくれたんです。最初は、ぜんそくにいいといわれていた水泳を始めたんですが、水が怖くて合わなかった。それで他のスポーツを探しているときに、母がたまたま近所の子が側転をしているのを見て、体操なら身体も強くなりそうだ、と思ったそうなんです。大阪は体操が盛んですから、いくつかの体操クラブを見に行って、楽しそうだったクラブに入りました。水泳と違い、跳ねたり回ったりする動きはとても楽しかったので、体操を続けることにしました。
ところが1年ほどして試合に出るようになって、びっくりしたんです。あるクラブが表彰台の1位から8位までを独占していた。そのクラブが、オリンピック選手を何人も出していた名門クラブだったんです。当時の僕は強いチームがカッコ良く見えて、子ども心に「自分も表彰台にのぼりたい」と思うようにもなり、この体操クラブに移りたいとお願いしました。
入ってみたらクラブの雰囲気が全然違い、驚きました。とにかく厳しかったし、コーチが怖かった。もう必死でした。辞めたくても、辞めたら叩かれるという噂が流れていて。定かではないですが(笑)。礼儀にとにかく厳しかったです。毎日練習ですから、放課後に遊んでいる友達がうらやましかった。でも、厳しい練習を続けていくうちに試合で勝てるようになっていきました。
今思うと、誰に教わるか、どこで教わるかということは、とても大事な選択だったと思います。どのクラブと出会うかで未来が変わってしまう。大事なことは、そのクラブが“どこを目指しているか”です。クラブ選びは、それをはっきり認識し、自分の目指すところと同じかどうかという基準で判断したほうがいいですね
――全国中学生大会で個人総合優勝、清風高校時代はインターハイ個人総合2位など、輝かしい実績を残されます。
当時、僕が入っていた体操クラブでは、学年を考慮して初級・中級・上級と班が分かれていたんですが、小学生でも班がどんどん上がる子がいるんです。僕も小学校5年生のときには、中学生のクラスに入れられていました。既に中学生のレベルだと判断してくれたんだと思いますが、実際は中学生と一緒だと、もうついていくのに必死なんです。当時はとにかく言われたことをやるので精一杯でした。コーチの言うままにやっていた。ただそれだけでしたね。でも、振り返ってみると、高いレベルで練習することでさらに上を目指すことが出来たと思います。
中学は全国7連覇中くらいでしたから、練習も緊張感いっぱいでピリピリしていました。一番練習が大変だったのは、中学、高校のときです。伝統を守らなければという周りからのプレッシャーで、とにかくやるしかない。毎日練習漬けでした。こんなに辛いならもう辞めてやるとも思ったりするんですが、その頃には体操はもう家族のようなものになっていて。他に行くところがないし、することもなくなっていました。
普段の練習のおかげなのか、試合でプレッシャーを感じることはありませんでした。普段の練習が厳しすぎるので、試合はむしろラクに感じるんです。プレッシャーを感じるというのは、練習ができていないということだと思います。今の日本代表の内村航平選手を見ていても感じますが、練習がしっかりできていれば緊張なんてしない。自分の意識とは関係なく、自然に身体が動く。それくらい練習し、動きを体に叩き込んでいるんです。
練習量は裏切らないし、自信にもなります。「あれだけの練習をやってきたんだから大丈夫、だから結果もついてくるはずだ」と思える。だから、また頑張れる。逆に結果が出ないということは、頑張っていないということ。そしてだんだんと、自分自身がどれだけ納得いく演技ができたかという達成感が重要になっていきました。試合の結果も重要ですが、例えば、失敗したけれど1位という結果よりも、全力を出し切った3位の方に達成感があるんです。勝てればもちろん嬉しいけれど、満足感は自分で決めるようになりました。
――大学では決して強豪ではなかった順天堂大学に進まれましたね?
勝たなければいけないというがんじがらめのなかで体操をしていた中学、高校の6年間。もうそういう環境から離れたい、と思ったんですね。本当に1位じゃなきゃいけないのか、2位でもすごいんじゃないか、という思いもあった。それともうひとつ、勝つ喜びは、むしろ弱いところに行ったほうが味わえると思ったんです。弱いところから強くなっていく。そういう面白さも体験してみたいと。
入学してびっくりしたのは、先生がいないのにみんなが自主的に練習をしていたこと。本当に体操が好きな人が集まっていたんです。監督と学生が普通に話していることにも驚きました。高校までは、監督に「はい」以外の言葉を発したことがありませんでしたから。個性的な選手が揃っていて、伸び伸びと練習ができる環境は、今まで捕らわれていた枠を取っ払ってくれました。そんな中、2年のときに全日本学生選手権団体総合で初優勝することができたんです。これは本当にうれしかった。格別な優勝でした。
あらゆる不満は、自分の中で原因を見つけていかないといけない
――大学3年で、全日本学生選手権個人総合2位、翌年のNHK杯では個人総合優勝。ところが、シドニーオリンピックの代表選考に漏れてしまいます。
中学、高校と厳しい練習を頑張ってきて、大学に入ってからは体操が楽しめるようになっていました。そのうえ、弱いチームに自分が入ったことでチームの成績が上がるようになり、自分自身としても結果が出ていたこともあって、おそらく自分はオリンピックに行くものだろうと思っていました。ある意味、天狗になっていたのかもしれません。
シドニーに行けなかった理由は、はっきりしています。練習をサボっていたからです。大学に入ってからはそれまでの反動で、海に行ったり、スノボに行ったり、やりたかったことを全部やっていきました。練習漬けの日々の中で言われないと出来ないようになっていたのに、練習しろと言われない環境に身を置いてしまった。でも自信だけはある。練習しないで勝つ人が天才だと思ってしまったんです。すべては基本が大事なのに、練習をいかにせずに結果を出せるかに意識がいってしまいました。
あとは「思い」の部分でしょうね。オリンピックに賭ける思いがどれだけ強いか。遊びたいだけ遊んで、適当に練習していて、なんとなくやっているようでは話にならない。もちろん代表に入らないと、というプレッシャーも自分の中にはあって、このままではいけないとも思っていました。大学を卒業し、徳洲会体操クラブという昔のように厳しい環境に身を置く選択をしたんですが、すでに遅かった。突然練習をやり始めたら故障も出てしまって、痛みに対してメンタル面で負けてしまいました。
――大きなショックから、どのように立ち直られたのでしょうか?
何より、自分に対する怒りがありましたね。何をやっているんだ、と。そのとき初めて、五輪のために家族がどれだけサポートしてくれていたかにも気づいて。僕につきっきりになっていた母を、姉はどんな思いで見ていたか、ということなども考えました。自分一人で全てやっていたかのように思い、周りを思いやれなかったんです。選考に漏れた試合の後、家族に合わせる顔がなく、一人で試合会場をあとにしました。
何も考えずにやってきた自分に対する怒り。これがその後4年間、アテネまでずっと続いていくんです。自分に対してこれまでにない怒りを練習にぶつけました。
シドニーオリンピックでは、自分が出ていたらメダルを取れていたんじゃないかと思うこともありました。その悔しさと、もともと負けん気だけは強かったこともあって、絶対に挽回しよう、できるんだと強く思いました。
これをきっかけに自分自身が一気に変わったんです。頑張って練習して結果を残すのがカッコイイんだと改めて思うようになりました。自分自身が変わり、必死に練習するようになると、まわりの見る目も変わっていきました。それまでは「おい、練習してるか?」と先輩たちにもいつも不安そうに聞かれていました。ところが、「ちゃんと練習しているらしいな」と笑顔で声をかけてもらえるようになって。
長髪にして染めていた髪の毛も元に戻しました。当時は、悪い噂が立つと、もっと悪くしてやろうと反発して悪ぶっていたんですが、もっと人から褒められる自分になろうと思いました。みんなを引っ張っていける人になりたいと思うようになって、自分の意識を体操に向け、誰よりもたくさん練習しました。
――ところが、なかなか結果が出せなかったそうですね?
競技ルールが変わってしまったんです。その意味では、僕のピークはシドニーにあったのかもしれないと思いました。練習しても練習しても、結果が出ない。でも、結果が出ないからこそ、また練習したんです。結果が出ないのは、練習が足りないからだと。どんどん体操にのめり込んでいきました。そうしたら、結果が出るようになって、アテネの代表にも選ばれました。
これはオリンピックの代表に限りませんが、選んでもらえなくてつぶれていくスポーツ選手は少なくありません。でも、選ばれるとはどういうことか、理解しておかないといけないと僕は思っています。どうやったら選ばれるのか、どういう選手を選びたいと思っているか、そういうことがわかっていないといけない。
オリンピックは4年に一度です。いつも強い人がメダルを取れるとは限らない。ただ強ければいいわけではなくて、この人を選びたいなと思われる人が選ばれるんです。それだけの雰囲気や空気感、噂のようなものも作っていかないといけない。あいつは大変な練習をしている、アイツはこういうところで使えそうだと思ってもらえるかどうかが大切なんです。
ここで、どうして選んでもらえなかったのか、と人のせいにしてはダメなんです。問題を必ず自分に向けるクセを付ける。そうでないと問題は解決されない。すべての原因は自分にあるんだと思って、自身の成長に結びつける。あらゆる不満は、自分の中で原因を見つけていかないといけないと思います。
――そして、アテネオリンピック代表に選ばれます。どんなお気持ちでしたか?
まずは、浮かれてはいけない、と思いましたね。環境が一気に変わるんです。合宿所に入ると、いろんなものが支給されたり、テレビ各局のアナウンサーなどにインタビューを受けたり、有名人が見学にやってきたり…。これでは舞い上がってしまうのは当然です。でも、これが終わりではないんですね。始まりなんです。出場がゴールではなく、金メダルがゴール。それを自分に言い聞かせていました。
人生で一番緊張したのは、オリンピック団体の決勝
――アテネオリンピック代表では、体操団体のキャプテンにも選ばれました。最初から金メダルを狙っていたそうですね。
キャプテンは代表に選ばれてすぐに指名されました。最年長でしたし、練習でも自然にキャプテンシーを出す性格ですから、そうなるだろうと思っていました。でも、競技の上ではキャプテンとして何かすることはないんです。個性豊かなメンバーでしたが、それぞれみんなが前を向く気持ちを自然に持っていましたから。
あのときは、体操団体にメダルの期待はまったくなかったんですね。でも、僕は絶対にメダルを取るんだと思っていました。それも“金メダル”を取るんだ、と。そういう空気をいかに作れるか。これはキャプテンとして意識しました。金メダルを取ったら人生が変わる。今は大きな人生の岐路に立っている。とんでもない価値が目の前にある。それを食事のときやお風呂のときに話していました。メダルを取るんだという意識を日常会話の中に入れたんです。間違っても、「今日、どこそこのテレビが取材に来ていて」みたいな浮かれた空気にはしたくなかった。勝負はこれからだったからです。
――初めてのオリンピック、そして金メダル。どんな印象を持たれましたか。
選手村に入ると、緊張感を持たないといけないと思いながらも、ワクワクしてしまうんですよ。有名な選手が普通に歩いていたり、ファストフード店があって無料で食べられたり。“これがオリンピックなのか”と夢の中にいるようでした。夢の中にいて、メダルというもうひとつの夢を追いかけているような感じでした。
予選はまったく緊張しませんでした。それどころか、楽しくてしょうがなかった。すばらしい会場で、満員の観客がいて、高得点もどんどん出る。気持ち良かったですね。この予選で1位になって、いよいよメダルに手が届くぞという気持ちも高まりました。ところが決勝は、まったく違う雰囲気なんです。一番緊張していたのは、超満員の観客だったかもしれない。びっくりするほどの静寂の中、自分たち選手への大きな期待をひしひしと感じました。
会場に入った瞬間、寒気が身体を走りました。間違いなく人生で一番緊張しました。最初は床。このままでは失敗する、と思いました。でも、突然やれと言われてもできるくらいに練習していたんです。恐怖はあるのに身体が勝手に動いていて。床を乗り切って少し気持ちが安定しました。
メンバーにも声をかけたいんですが、うかつなことは言えない。「頑張れ」も「落ち着け」も言われたら余計に揺らぐのではないかと思い、黙って背中だけポンと叩いて送り出しました。
金メダルが決まったときは、意外に冷静でしたね。まわりが喜んでいる姿ばかりが見えて。やっぱり実感が湧いたのは帰国してからです。
――現役引退後はメンタルトレーナーとして活動、そして体操教室も横浜に開校されました。金メダルで得たものも含め、今後の豊富をお聞かせください。
金メダルは、自分自身を大きく成長させてくれたという印象が強いです。自分の置かれている環境が変化し、それなりの役割が求められるようになった。結婚式に出れば、「今日は金メダリストがお見えです」とスピーチを求められる。歩いていれば写真を撮られる。普通でいることができないんです。もともと僕は話すことも人とのコミュニケーションも得意ではありませんでしたが、そんなことは言っていられなかった。ずいぶんと鍛えられました。
思えば、なぜ金メダルが欲しかったか。それは、メダルそのものではなくて、金メダリストに憧れていたんだと思うんです。しっかりした言葉で自分の思いを語り、人々にメッセージを発していく立派な金メダリストたちが、日本にも何人もいました。ああいう人になりたい、と思ったんです。どうすればなれるんだろうか、と考えるようになりました。その想いが結果的に人として大きな成長をさせてくれたと思っています。
引退後に自分で定めたテーマは、求められたときに、求められた場所で、求められた力を発揮できるようにする、ということでした。これがメンタルトレーナーの道に進んだ理由のひとつです。求められた場所で、求められた力を発揮したいという欲求は誰もが持っているものですし、それに必要なメンタルの強さを自分自身に求めています。“心の持ち方ひとつで世界が変わる”、ポジティブなものの考え方や緊張をコントロールする方法などを多くの人に伝えていきたいと思っています。
金メダリストというと、とんでもないことをしてきた人間だと思っている人は少なくありません。でも実は、特別なことをしてきたわけではないんです。毎日の基本をしっかりやる。その積み重ねが重要。むしろ特別なことではなく、小さな日常にこそ大事なものは潜んでいるんです。すごい人たちは、実は普通の人でもある。意外にすごくなかったりする。子どもたちに憧れを持って見てもらう一方で、そんな現実も伝えていきたいんです。そして、自分の世界を変えてくれた体操を通して、世界に羽ばたいていく選手を育てていきたいと思っています。
――本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました。
取材・文:上阪徹 /写真:三宅詩朗 /編集:丑久保美妃
(2012年6月 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
米田功よねだいさお
メンタルトレーナー
1977年生まれ。大阪府堺市出身。 7歳から体操を始め、全国中学生大会で個人総合優勝。清風高校時代にインターハイで個人総合2位。順天堂大学に進み、1997年の全日本学生選手権個人総合2位、1998年…
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