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その名前が全国区になったのは、2003年、都内では義務教育初の民間人校長として、杉並区立和田中学校校長に就任したこと。だが、それ以前からビジネスの世界ではすでに著名な人物だった。まだリクルートが、日本リクルートセンターという名称だった頃に入社。トップセールスとなり、後に一貫して新規事業関連の担当に。1985年には、リクルートが1200億円を投じた新規事業・情報ネットワーク事業で斬り込み役を務め、後に部長を務めた。89年には、メディア制作担当プロデューサーとなり、92年にメディアファクトリーを設立。94年には新規事業担当部長に。95年、パリに本拠を移し、ヨーロッパ駐在。帰国後、年俸契約の「フェロー」として特命新規事業担当という新しい働き方を作り、これが後の校長就任の伏線となった。藤原氏の成功哲学、そしてターニングポイントとは。
経営者を「本気にさせる」プレゼンでトップセールスに
「東大卒でリクルートに入った新卒社員は、僕が第一号なんですよ。リクルートは当時まだ小さな会社で、東大の仲間で中小企業に入ったのは僕だけでした。でも、大企業にはまったく興味がなかった。大企業の“歯車”になってしまうと、人事部によって全国どこへでも送り出されてしまう。そんな状況は恐ろしかった。そもそも僕は恐がりなんです(笑)。だから、理想は30人くらいで全員の顔が見えるところ。実は大学3年で単位を全部取り終えていたので、一年早く就職活動をしました。このとき受けたのが、当時まだ小さかった外資系コンサルティング会社。来年おいで、と言われたんですが、直後にリクルートのアルバイト募集のハガキが家に来ていて、始めてみたんです。気づいたらそこでやらせてもらった営業の仕事に夢中になって、そちらに関心が向いてしまったんですね。役員面接では、『いずれコンサルタントとして独立したいから、20代は自分にとって一番勉強になる会社で働きたい』と言いました。僕の父親は最高裁判所に勤める公務員でしたが、明日をも知れぬ会社に入った息子に、何も言いませんでしたね。
入社して採用広報を支援する営業に配属されたんですが、3年間トップセールスでした。なぜそれができたのかといえば、採用広報に経営者を引っ張り込んだからです。それこそ前年3000万円の予算の会社に2億円のプレゼンテーションをする。億単位の話になると、経営者が出てくるんです。そして、本気の採用戦略を提案する。実は僕が入る前年は不況でしたが、僕は父親が公務員でしたから景気を意識することはなかった。そこに思い切った本気の提案をするわけですから、企業からは面白がってもらえたんでしょう。そもそも僕自身が面白く仕事をやろうと思ったらそうなったんです。こちらが面白くやってないと、相手に感動は与えられないですからね。仮に採用人数や予算が小さかったら、新卒採用だけじゃなくて、社員のモチベーションアップにもつなげましょう、と大きな提案に結びつけていった。
あるクライアントは僕のアイディアを評価してくださって、『○○株式会社 経営企画室主任 藤原和博』という名刺をくれました。君にはこのくらいの気持ちで仕事をしてほしいんだ、と。これは嬉しかったですね。 」
新規事業の立ち上げに燃えた“スーパーサラリーマン”時代
―――いずれは辞めるつもりだった。仕事は面白かったが、もうそろそろ、と思った矢先に会社が新しい提案を持ちかけた。営業から安比高原スキー場オープン時の東京広報担当へ。当時 リクルートが主導して開発を進めていた巨大プロジェクトだった。以 後、新規事業関連で次々と実績を出し、『スーパーサラリーマン』として絶好調の時期を迎える。
「僕はスキーが大好きだったので、安比高原 スキー場PRの仕事にもハマりました。 それまで、クライアント企業から自前の名刺をもらったりして、リクルートの役員たちにかなりインパクトを与えていたんですね。でも一方で、藤原は腰がすわらない、あいつは地に足がつかない、という批判もあった。そんな中で創業者の江副浩正さんが、『ああいうやつは自由に遊ばしておいたほうがいい。そうすれば貢献するんだから』と言ってくださったようで。うまく使ってもらったな、と思っています。
その後はずっと新規事業開発を担当しました。家を建てる人向けの情報誌を作ったり、 情報ネットワーク事業立ち上げの先兵を務めたり。企業の成長期には無限のチャンスがあるんです。まさに当時のリクルートがそうでした。事業の開発は、3つのステップで行われるんですね。『立ち上げ』から、『利益を生むシステムづくり』、そして『メンテナンス』の段階へ。僕がいちばん力を発揮できて、数多く担当したのが、最初の立ち上げの斬り込み隊長役でした。数カ月で事業を形にする。必要なのは、とにかく行動力。机上の空論ではなく、やってみて修正する力が問われる。その力を買ってもらいました。
実際、新規事業というのは既存のマーケットから批判されるんですよ。“イジメ”も受ける。従来のやり方を知っているユーザーは、簡単に新しいものを手に取ろうとはしない。そんな中で新しいものに挑むのは苦しい。だからとにかく新しいものを面白がれるかどうか。面白ければ辛さも癒されるんです。というよりも、そもそも僕はこれまで仕事が楽しくなかったことは、一度もありません。楽しくないと思ったら、この取材の瞬間でも帰りますから(笑)。何でも面白がる姿勢は一貫させてきましたね。ただ、激務が続く中で、激しい頭痛やめまいに襲われるメニエール病にかかってしまうんです」
日本が変わる中、自分は40代、50代に何をするべきか
――メニエール病を患ったのは30歳。ちょうど次長になる直前だった。リクルートははっきりした能力主義の会社だったので、トップセールスだった新入社員時代から、給料もポジションも驚くほど上がった。目指したわけではなかったというが、31歳で部長になり、年収は1500万円を超えていた。だが、メニエール病を患ったことで無理が利かなくなる。改めて自分自身を見つめ直したという。
「昼間から頭がぼーっとして、めまいや吐き気がする。そんなメニエール病の症状を意識しだしたのは、次長になる直前の時期でした。通院して症状はなんとか和らぎましたが、その頃から自分の現状に疑問を抱くようになってきました。『これは自分が本当にしたい仕事だったのか』と。それに病気のこともあり、接待など、夜遅くまで飲むこともできなくなってしまった。出世レースはもう体力的にできないなと思いました。でも、よくよく考えてみれば、出世することが自分にとってカッコイイことだとも思っていなかったんですね。もっとクリエイティブで、自分が面白いと思える仕事がしたかったはず。しかも、冷静に考えてみると、自分がこれまでに出してきた結果は本当の実力によるものだったのか、とも思えてきました。『リクルート』という看板と環境があり、江副さんのカリスマ性があるからこそ、できたのではないか。それこそ自分の実力なんて、結果の1割だと思うようになったんです。
この後、出版社のメディアファクトリーの設立に加わって、新しいメディア作りに関わる中、日本が成熟社会になることが見えてきたんです。これからの日本は変質していく。そういう中で、自分は40代、50 代に何をやっていくべきか。それを学びたくて、ヨーロッパ行きを会社に申し出るんです。今から20年近く前のことでした。
20代の頃からおつきあいをさせていただいている方に、日本最大級の弁護士事務所を率いておられる田中克郎先生がいらっしゃっいます。『40代、50代に何をやるべきか、人生と社会の変容を学ぶとはどういうことか』と先生に相談すると、『それは哲学だ』とおっしゃられて。哲学といえばパリ、でしょう(笑)。カミさんに言うと『それはいいわね』と言ってくれて。彼女は翌日にはラジオのフランス語講座を始めていました。
短期の出張ではなく、家族で移り住んだことに大きな意味がありました。生活者として成熟社会を見られたから。そしてヨーロッパに暮らしたことで、自分がやるべきテーマがはっきり見えてきたんです。そのひとつが教育であり、介護でした。この2つの分野で日本で社会変革、いや社会革命が起こらないと、まともな成熟社会は迎えられないと確信したんです。こうなると、リクルートに戻って興味のない部門の部長なんかできない。一方で、教育や介護はリクルートにとっては未知の分野。それで共同事業をやるパートナーとしてのフェロー制度を作ったんです」
【ターニングポイント】閉ざされた学校の象徴、校長室を開放する
―――リクルートへの入社、ヨーロッパ行きが人生の転機だったと藤原氏。だが、やはり最大の転機は、47歳にして東京都内で義務教育初の民間人校長となり、杉並区立和田中に赴任したことだ。全国から大きな脚光を浴びる中、藤原氏は次々と民間人校長ならではの大胆な施策を実施していく。そしてその名前は全国に知られることとなる。
「フェローとして活動を進めていく中で、公教育を変えていくには現場に入っていくしかない、と僕は思うようになりました。それで、杉並区教育委員会のアドバイザーになるんです。そして、100を超えるアクションプランを作るお手伝いをした。 実は教育委員会には優秀な人がたくさんいたんですね。ところが、なかなか変わらない。校長はじっとしていれば、そのうち任期が来るわけですよ。それまで僕は手弁当で手伝っていたんですが、あるとき担当者が、アドバイザーにも報酬を払えるようにしてくれたんですね。そのときに僕は言ったんです。直接やりたいから、校長になれるかどうか当たってほしい、と。
これには、さすがに担当者も絶句していました。区としても想像もつかなかったことだったようです。でも僕は、早くからそれを考えていました。いわゆる『普通の中学校』が、マネジメントだけでどこまで変われるのか。それをやってみたかったんです。小中学校は全国に3万校。その中で一校だけ、特別扱いされない状況の中で校長だけが変わることで学校が変わることを実証するチャレンジです。とにかく、 ショールームを見せないとダメだと。もちろん怖い部分もありました。フェローになってから丸6年間、毎日勤め先に通うことからも遠ざかっていましたから(笑)。しかも、<誰もやっていないこと>、<みんなが無理だと思うこと>を、リクルートとは正反対の保守的なカル チャーのなかで実践できるかどうか。
でも赴任して2週間で、『これはいける』と確信しました。なぜなら生徒たちが興味を持ってくれたからです。着任早々の始業式の挨拶で僕は彼らにこう話しました。『これから校長室を開放します。面白い本を置いているからいつでも遊びに来てください』。これは自信があるんですが、僕は物事の一番の要点、つまり“ツボ”がどこかを瞬間的に察知できるんです。学校をマネジメントするなら、校長室を開け放つことだと思いました。閉ざされている学校の象徴ですからね。その扉を開き、時間があれば本を読んでいました。大人が本を読んだり、学校外の人々と打ち合わせしたり、生徒た ちのために仕事している姿を少しでも見せたかったからです。 教育って“伝染”なんですよ。何を伝染させたいか、です。
当初、先生方は僕のやろうとすることすべてに反発していましたが、生徒からすればこんな校長はいなかったんでしょうね。おまけに、重松清さんの小説が面白いと言う生徒がいると、本人を連れてきてしまったり。保護者にもすぐ伝わって、よく本を借りに見えました。そのうち、とうとう先生たちも本を借りに来るようになるわけです 」
藤原和博からのメッセージ
「僕に校長ができたのは、僕だけの力ではないと思っています。たくさんの“味方”がいたんです。背後に、有名・無名を問わず 500人を超える専門家集団がいた。言ってみれば、今でいう“アバター”みたいなもの。背後の500人の想いをかけて、僕は戦って いた。そして彼らは実際に参加もしてくれました。 では、500人とは何でつながっていたのかといえば、仕事でつながっていたんです。別に、特別なメンテナンスで人脈作りをしていたわけではありません。面白いと思える仕事で繋がっていたんです。感動できる仕事、と言ってもいい。藤原と仕事をすれば“サプライズ”があると思ってもらえれば、特別なことをしなくても、次に何かやろうとしたときに参加してもらえる。こちらからお願いはしても、借りは作りません。それが僕のやり方です。
僕が関わってきたビジネス界と教育界。まったくの畑違いと思われがちですが、両者は同じ問題を抱えています。現在の学校教育に欠落しているものが、そのまま現在のビジネスシーンに欠落していると言ってもいいでしょう。 これまでは短時間でどれだけ多くの答えを出すか。いわば“情報処理能力”が学力の高さとされてきました。答えは1つしかない、『正解主義』の社会です。これは、皆が同じ価値観を持っていることを前提としていましたが、今や日本は成熟社会に入りました。そこでは、考え方が異なる他者とどう折り合うかが重要になる。他者の存在を前提とした教育が必要です。当然、正解は1つではない。問題に対して、さまざまな情報を集め、多角的な視点から試行錯誤しつつも修正しながら解を導き出す『修正主義』で生きることが必要です。ここでは“情報編集能力”が求められているんです。
ビジネスの現場だって、働き方にしてもキャリアの築き方にしても、成功への道は1つではない。人生も同じです。暗いヤツは暗く生きればいいんです(笑)。正解は一人ひとりそれぞれ違う。問題は、これから個人がどう戦略的に生きていくか。自分の人生のエネルギーカーブを分析し、自分の人生の“編集者”として生きていく力を僕は教えていきたいと考えています」
(了)
取材・文:上阪 徹/編集・写真:上原 深音
(2010年1月25日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
藤原和博 ふじはらかずひろ
「朝礼だけの学校」校長
ライブ講演が1850回を超える超人気講師。書籍累計94冊160万部(2024年4月現在)、2020年にはベストセラーを集めた全10冊セット『藤原和博の「人生の教科書」コレクション』(ちくま文庫)が発売…
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