韮崎高校(現在ボルトン・ワンダラーズ所属の中田英寿選手の出身でもあるサッカーの名門校)で、エースとして活躍された羽中田昌さんは、今車椅子の監督を目指し、S級ライセンス取得にかけて邁進している。足の動かない苦しみを乗り越えて、前に、未来に進もうとしている行動の根底にある原動力なるもの。メッセージ。ワールドカップのサッカー熱が沸き立つ今、ひた向きにサッカーを愛してきた羽中田さんの人生に学ぶこととは?
羽中田昌(はちゅうだまさし)
スポーツエッセイスト
サッカーの名門韮崎高校にて2年連続全国大会準優勝。
韮崎高校の黄金期のエースとして、その名を轟かせるが、高校卒業後、交通事故に遭い、脊髄を損傷、下半身不随の生活を余儀なくされる。
その後県庁に9年間勤めたが、サッカーへの熱い思いが募り、スペインへのサッカー留学を決意。バルセロナ滞在の5年間でサッカーコーチングを学びながら、執筆活動も開始。
現在は講演活動や執筆活動など多方面で活躍する傍ら、
サッカー史上初の車いす監督を目指す。
サッカーからもらったものを、より多くの人に伝えていきたい
-韮崎高校時代はサッカー漬けの生活だったと聞きましたが、実際はどうだったのですか?
中学校まではね、楽しくて楽しくてしょうがなかった。寝るときもサッカーボールと一緒。高校に入ってからは勿論、目指すところは日本一でしたから、一心不乱に苦しい練習にも耐えて、韮崎高校のエースとしてとにかく一生懸命やっていました。あまりにサッカーばかりやっていたから、「脳みそまで筋肉になっちゃうよ。」なんてたまに言われたりしてね。(笑)
7つ年上の兄の影響でサッカーを始めたのですが、小学校3年生の時、運命の試合と出会ったんです。74年、西ドイツで開かれたワールドカップ決勝戦。その試合を見て、自分でも良く分からないんですけれど、涙が流れてきたんです。まだ9歳ですよ。これはコラムでも書きましたが、オランダのヨハン・クライフという選手の優雅なプレースタイルやキャプテンシーを見てね。
それからかな、サッカーがとにかく上手くなりたい、それでいつの日か自分もワールドカップに出たい、そんな夢をずっと追いかけてきたんです。勿論周りの方からも期待もされていました。だから、今でもJリーグで頑張っている友人もいるけれど、突然の事故で足が動かない、となった時は「全てを失ってしまった」という絶望感で、ただただ、病院のベッドの上で抜け殻になったんだ。「俺にはもう何も残ってないな」って。
-ずっとサッカーと共に生きてきたんですね。
そう。今だから話せるけれど、高校を卒業した年、浪人をしていて、クラス会に予備校をさぼって出席したんだ。それが楽しくて久しぶりの息抜きになったことをよく憶えている。その翌日、8月7日。シャワーを浴びて友人の所へバイクで向かう途中、突然前輪がパンク。ハンドルをとられてガードレールに激突。そして、転倒。投げ出された身体が路面の上を踊ったんだ。意識があるけど足が動かない。すぐに脊髄がやられたと感じました。立つことも歩くこともできない。大好きなサッカーなどできるはずもない。
それから、凄く距離を置いていたわけではなかったんですが、わざわざスタジアムにサッカーを見に行くことは、しなかったですね、しばらくの間。自分は高校サッカーでテレビに出ていたので、少し有名で、車椅子になってからも僕を見かけて話し掛けてくれる人がいたりするんですよ。「この人凄かったんだよ。」なんて言われた時は辛かったですね。「”サッカーの羽中田”はもう終ったんだから。」っていう気持ちでね。
-病院のベッドの上で、いろいろなことを考えられたかと思うのですが、
山梨県庁職員に採用され社会復帰し、前に進む力になったものは何だったのですか?
やはり周りの人達のおかげかな。家族や友人や妻、いろんな人達が支えてくれた。そうしたら、『この人達を悲しませるのは悪いな。嫌だな。』って思うようになったんですよ。自分ひとりだったら、もしかしたら諦めていたかもしれない。でも人間って誰かのために頑張ろうとすると、力が沸くんですよ。結婚もそう、妻が僕に自信を与えてくれた。だから、「こいつのために頑張ろう」って思えてね。これはすごく大きかったな。
それから、事故にあった時に、たまたまそこにいた白いエプロンをつけたおばさんが「世の中そんな悪い事ばかりじゃないよ。」って言ってくれたんです。今は本当にそう思うけれど、何かあるとこの言葉が思い浮かんだな、よく。
それとね、やっぱり子供の頃に感じた感動は残るんですよ。あの時に感じたことは、忘れようとしても忘れられない。なんだかんだ言って、結局サッカーに戻ってきたわけですし、今は。
-やはり羽中田さんにはサッカーなんですね。
同じようなことを妻に言われたな。(笑)
9年間県庁の職員をしていたけれど、1993年の春、Jリーグの開幕戦を見た一ヵ月後、どうしようもない悔しさが溢れてきてしまったんです。かつてグランドで一緒にプレーした仲間たちがグラウンドに立っている。何故、あそこに俺がいないんだって気持ちが抑えきれなくなってね。それで、妻に「もう一度サッカーの世界に戻りたい。」と打ち明けたら、そんな返事をもらったんですよ。「県庁職員よりも、きっとサッカーのほうが似合っている」って。
それから、自分に素直になって、サッカーの指導者を目指すことを決めたんです。
-その決断が今の羽中田さんに繋がるんですね。
そうだね。監督なら、車椅子でもできるんじゃないかって思った。それから指導者の勉強をするためにスペインへ行って、たくさんの経験をしたな。リーガエスパニヨールのアスレチックの責任者が言った、「選手の育成に大事なことは、目標を与えてやる事だ。」っていう言葉だったり、妻との二人三脚で歩いた生活だったり。サグラダファミリアの思い出は、コラムを読んでもらえば分かるかな。僕はサッカーを通してもたくさん失敗しているし、その失敗が指導者をやる上でアドバンテージにもなると思う。
-現在、暁星高校サッカー部を指導されていますが、生徒はどうですか?
要求すればみんな一生懸命やるし、歯を食いしばってついて来る子が多いですね。勉強しながらサッカーもやって『この子達、本当に遊ぶ時間がないんだろうな』っていうのがよく分かる。
ただ、要求したものや与えたことは一生懸命やるんだけど、『こうやろう』とか『もっと工夫してみよう』とかそういうものがグランドの上であんまり見ることができない。そこが少し物足りないかな。もっと自分を表現すればいい。『自分はこういうことがやりたいんだ』ってことをもっとぶつければいいのにな、と思いますね。
-羽中田さんの高校時代は、そうでしたか?
そうだね。僕は、「自分の思うサッカーをやりたい!」っていうのをよくグラウンドで監督にぶつけていました。(笑)その時の監督が、よく聞いてくれる監督だったのですが、時にはケンカをした。夏の練習、灼熱の太陽の下で100本ダッシュとかやって、そういう時に「なんでこんな練習をやらせるんだ!」とか「俺はセンスで勝負したいんだ!」とか(笑)そんなことを言いながらやっていました。
結局日本1にはなれなかったんだけれど、仲間と一緒に励ましあいながら、文句を言いながらやれたのは凄く良かったなって思います。頑張るってその時は大変ですが、やはりどんな無意味な頑張りでも頑張るって素敵だなって思うんですよ。ただそれだけでね。本当、そう思います。
-頑張るって理屈ではないですからね。
サッカーに関わっていく中で、車椅子だから見えてきた。と思うものはありますか?
凄く難しいことをしていたんだなって思いますね。車椅子で指導する立場になって、体の微妙な動きを言葉で説明することが凄く難しいと感じます。同時に、「上手い選手というのは、本当に微妙なところで上手い」ということもより実感しましたし。
それでも監督は自分のサッカーを伝えるためにグラウンドに立っているわけだから、それが出来なければ指導者の資格はない。動きを言葉で伝えられなきゃチームに必要ないんですよ。だからね、言葉の難しさを感じながら、今は勉強中です。ただ、イメージさせることが非常に大切だと思うので、トップレベルの選手のプレーなどを例にしながら、動きをイメージさせることを意識しています。教えることの経験も少しずつ積み重ねていきたいです。
-今、現在はS級ライセンス取得に挑戦されてるんですよね?
そうです。20年後には、子供達、ユース、中学生や高校生ぐらいの年代の子供達にサッカーを教えていきたいので、そのためにもJリーグの監督になりたいんです。ライセンスの講習はひと段落しましたが、実技試験が追試になってしまいまして。車椅子を一つの個性にして、頑張りたいと思っています。
それに、良き指導者になるためには、人間力ももっと必要だし、「こういうサッカーをしてファンに感動を与えたいんだ。」という自分のサッカーのコンセプトもしっかり持たなければならないと思う。自分が指導者になったら、選手の成長をちゃんと穴があくほど見てやろうと決めているんですよ。選手をちゃんと見てあげる監督にね。
それから練習が終わった後に、今までの自分の経験も伝えて行きたいです。サッカーのことだけでなく、「ひととは違う大切な個性」の話だったり、ヨーロッパを車で周った話だとか、自分が今まで出会った人達の話だとか。そう考えると、やっぱり最終的には子供達にね、夢を与えたいな、サッカーを通じて。「あの時はこうだった。ああだった。」というのではなくて、その時その時に感じてきたことがエネルギーになって、それが言葉になって子供達が何かを感じてくれたらいいな、と思っています。
-最後になりますが、サッカーの好きな部分ってどこですか?
そうだね。11人皆で力を合わせてゴールに向かっていくところかな。それと、難しいところ。パズルを解いていくように、ひとつひとつを組み立てていく感じが、とても。
実はね、45歳になったら、韮崎高校時代のチームメイトと一緒に『山梨のサッカーを盛り上げて行こう』という話をしているんです。出来るかどうかはまだ分からないですが。そうやって、サッカーを通じてかけがえのない出会い、贈り物もたくさんもらったし、好きな部分というより、凄く自分の人生の中で大切なものなんです。
本当に今はね、”サッカーの神様”っているんだなってつくづく思います。
-素晴らしいお話をありがとうございました。
S級ライセンス、監督の夢、是非応援させて頂きます。
文・写真 :鈴木ちづる (2005年1月5日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
羽中田昌はちゅうだまさし
サッカー解説者
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