4歳でデビュー。「がんばれ、がんばれ、玄さん」のカワイイ掛け声が流れるCMで一躍脚光を浴び、ドラマ、舞台と幅広く活躍した国民的子役スター、間下このみさん。中学入学を機に芸能活動を自粛した後、単身アメリカに留学し写真の技術を習得。帰国後は写真作家としても活動を開始。
ところが、06年5月、妊娠6ヶ月で第1子を死産。同10月、再妊娠とともに、難病「抗リン脂質抗体症候群」の罹患が発覚するも、07年3月に全身麻酔の中、無事に長女を出産。現在、闘病中でありながら子育てと仕事を両立させている間下さんに心境を伺いました。
「天才子役」と呼ばれて
―「天才子役」と呼ばれて、放課後、友達が遊んでいる中を撮影現場に1人通う日々。当時の間下さんにとって子役の仕事とはどういうものだったのですか?
子供の私にとって、放課後にもうひとつの違う学校に行く感覚。すごく楽しい場所でした。大人が考えるような『遊べずに仕事をして可哀想』という感覚ではなかったです(笑)。元々芸能界入りのきっかけは、母が友達から「自分の子供をモデルにしたいから事務所についてきて」と頼まれたこと。私はおまけで連れて行かれただけだったんです。正直、母も私が小学校に入るぐらいまで楽しめたらいいなという感じで。ところが、『がんばれ玄さん』がブレイクしてしまって、あれよあれよで、それからはあまり状況を考える閑がなかったですね。日々仕事が入ってきて、それを次々とこなす毎日になりました。でも、何でも興味を持つ子だった私はいろんな人に会えて、いろんな洋服を着られて、お芝居という疑似体験もできるのが純粋に楽しかったし、好きだったんですね。帰宅した後も、セリフを覚える努力はしていましたが、全く苦ではありませんでした。
誰かに強制されていた訳じゃないんです。例えば事務所が、「これは、このみにとって厳しい仕事かもしれない」と言った話でも、親だけで判断してオファーを断ることはなく、私に「どうする?」とちゃんと聞いてくれました。「こういう負担がかかる仕事だけど、あなたはどう思う?」と。事務所側は聞かなくてもいいと言ったらしいんですけど(笑)。親が、子供ながらも私を尊重してくれたんですね。でも、それ以外の日常では、芸能の仕事をしているからと私を特別扱いしたりなどしませんでした。それも私にとって良かったと思います。
――中学入学を機に、芸能活動を自粛されましたが、あれもご本人の意思ですか?
そうです。小学校時代から親も事務所もなるべく学校に行かせる方針だったのですが、それでも私は中学に行ったら、ちゃんと勉強をして、ちゃんと学校生活をしてみたいと思う気持ちがどこかにあったんですね。だから中学に入るのを機に、芸能の仕事を自粛したいと小学校5~6年で考えていました。部活もやってみたかったんです。学校の授業はまだしも、仕事をしながら、部活は時間的にもできないでしょ?(笑)。そんなこともあり、中学時代は卓球部、ギター部、合唱部、とにかくいろいろと顔を突っ込みました。実はその中でも、卓球は私学の都大会で3位になったんですよ。新聞に名前が載った時は嬉しかったですね。運動部の独特の雰囲気ってすごく楽しくて、数年ですがとても濃い時間でした。当時の卓球部の友達は、今も大事な友達です。
――間下さんの場合、縁があって幼い頃から芸能界入りをし、そのままやり続けることも可能だったのに、中学に入る時に、自分の意志で自分のしたい事を改めて考えられました。その後、写真の勉強のため、アメリカに単身留学をされたりと自分の道を自分で切り開いていらっしゃいますね。
私は目標がないと動けない人間なんです。例えば高校生の時、「大学に行くのはわかってるけれど、何学科に行くのか分からない」という方がいますね。そういうのが自分としては嫌なんですね。自分はこうなりたいって目標を持ってから進みたい。その代わりすごく考えました。昔はお芝居をしていたけれど、違うことで表現するのは何だろうと模索している時、たまたま父の趣味の写真が引っかかったんです。
高校の進学コースにいたので、友達はみな大学受験。私だけ「写真の専門学校に行きます」って言うものだから、担任の先生はビックリしてましたね。人がどう思うかとか、人目を気にする方もいますが、私は人が何を言おうといいと思いました。自分の人生だし、興味があることに突き進んで行けば必ず何かがあると。留学をしようと決めたのは、専門学校を卒業して写真の仕事をはじめてからです。自分がお金をもらう程のスキルを持っているのか、という疑問を抱えて。「このままじゃいけない。自分を変えたい」というきっかけが、留学につながったんです。
とにかく何か目標をもたないと、人って頑張れないんじゃないかな、と私は思うんです。いろんな出会いがあるし、目標って途中で変わることもある。途中で変わっていいから、とりあえず目標を置くことが大切なんじゃないかなと。私は、相田みつをさんの「あのねえ 自分にエンジンかけるのは 自分自身だからね」という作品が好きなんです。やっぱり、エンジンをかけるのは自分自身なんですよね。
出産と難病に向き合って~命の奇跡を知った瞬間
――最初の妊娠では死産という大変辛い経験をされていますね。 死産の時には、陣痛促進剤を打って分娩をされたと聞きましたが…
主人が補聴器で胎音が聞くのが日課だったのですが、ある日突然胎音が聞こえなくなって、お医者さんに駆け込みました。亡くなったと知った瞬間は、ショックと同時に申し訳ないって気持ちで一杯でしたね。まず主人に申し訳ない。楽しみにしていた両親や、主人の両親に申し訳ない。そして、一番は自分の息子に申し訳ない。もしかしたら自分が何かしちゃったんじゃないか、行いが悪かったんじゃないかという気持ちで一杯になった。しばらくは、何にも手がつかなくなりましたね。
ただ亡くなってしまったとしても、ほっとくわけにはいきません。お腹の中にいる子供は私の子供だし、やっぱり自分の力で、この世に出してあげたいって気持ちがだんだんと強くなってきて。だからお腹の中で息絶えた我が子を、陣痛促進剤を打って分娩しました。
よく『オギャーと泣かない子をこの世に産むのは辛かったでしょう』と聞かれるんですが、意外とそういう気持ちはなくて、いま振り返れば、逆に自分の力で生んであげられて良かったです。生まれた後、息子の姿を見た時も、悲しくなって大泣きするだろうと思っていたら、意外と笑顔でいられた。嬉しくなっちゃって。…息子の姿を見られたことがね。目がすごくキラキラしていて、キレイでした。見ることができない方もいらっしゃるみたいなので、私は子供を一度でも見られて幸運だったと思います。亡くなっていても、我が子はいとおしく感じて。女の人って、妊娠した段階で母になってるんだなってその時にすごく感じました。
――2人目のお子さんが出来て、妊娠2ヶ月で難病(特定疾患)の「抗リン脂質抗体症候群」に罹患していることが判明します。血栓予防の注射を毎日打つ闘病を続けながらの出産だったそうですね。
「抗リン脂質抗体症候群」は、血液中に血栓を作りやすくしてしまう病気で、流産、死産を繰り返している女性に多いという、原因や治療法が確立されていない病気です。病気が発覚して、担当医から「おなかの赤ちゃんのリスクは高いと思ってください」と言われた時には、正直ショックでした。治療では注射を打たないというチョイス(選択)もありましたけど、主人が「やれる事はやろう。後悔はしたくないだろう?」と言ってくれて。父も「俺が毎日病院に送ってやるから」と。私も後悔したくない。自分がやれる限りのことは全てやろう、子供のためだと覚悟を決めたら、意外と怖くなかったですね。筋肉注射は痛いほうの部類でしたが、毎日打ちました。今日は右、明日は左と交互に打って。腕が蒼く腫れてきて日に日に打つ場所がなくなって、お尻やモモにも打ちました。
――合併症の「全身性エリテマトーデス(SLE)」にも悩まされ、旦那さんがSLEで痛む体を、毎晩マッサージしてくれたそうですね。旦那さんとはどのような会話があったのですか?
結婚すると、夫婦って意外とじっくり話す時間ってないものなので、マッサージする時間が会話の時間になりました。合併症では関節がものすごく痛くなるんですね。それで主人が何をしていいか分からない中、自分も少しでも何かをしたいと思てくれたみたいで。実際に心配してくれてるのが伝わるので、カラダ的にも嬉しかったけれど、精神的にも嬉しかったですね。生む日まで必死に頑張るって気持ちになりました。色々と話しましたよ。
実はあるとき、私が「もし子供も自分も駄目になりそうな時があったら、子供を助けてほしい」と言ったことがあるんです。そしたら主人の答えは「わかった」みたいな曖昧な言い方でしたかね。でも、あとから聞いたんですが、「もし医者がそう言ったら、お前を選んだだろう」て言ってましたっけ。その場では、そう答えないと喧嘩になるからって言ってました(笑)。
――子供が生まれた時は、どんな気持ちでしたか?
我が子を抱いた時は、嬉しいとかヤッターよりも、ホッとしましたね。私の体の中にいる方が危険かもと…、外に出してあげたほうが安全だと思ってましたし。結局、母体と胎児の安全のため、全身麻酔をして、予定より1ヶ月早く帝王切開で出産しましたが、やっとちゃんと息をして、心臓が動いている状態で産めたことにホッとしました。病院の授乳室に通って授乳してた時、赤ちゃんって指を反射的に握ってくれるんです。それが母親として頼ってくれてる気がして嬉しくて。写真作家の血が騒いで、思わず一眼レフで撮影してしまいました。
今後の夢・挑戦していきたい事
――現在も闘病中で、薬を飲まれる毎日だと伺っています。母親になって、変わったことはありますか?
そうですね。いまも薬は欠かせませんし、一ヶ月に一度は採血や検査をしています。子供ができてから大きく変わったことは、「死ねないな」と思うようになったことですね。私は子供と主人にとっては大切な存在ですから、なんとか生き続けなくちゃいけないと強く思うようになりました。
そして、自分の親への態度も変わりましたね。ありがたい存在だなと。あまり口答えをしなくなりました(笑)。子育ては一筋縄ではいきませんよね。人一人をリッパに育てることは甘くないなあと自分が子育てをしながら、実感しています。でもまだまだ親としては新米。人間ですし失敗はあると思い、完璧を求めず、ベストでなく、ベターを求めて突き進んでいくのがいいのかな、といまは考えています。ベストを目指してしまうとカチカチになっちゃって、気持ちの余裕がなくて悪循環になる(笑)。失敗したり、悩むこともたくさんありますが、主人と迷いながらもうまく育てていけたらいいなと思います。
――今後、他にも挑戦していきたい事があれば教えてください。
そうですね。私がこういう病気になったのも、なにかの縁だと思うんです。だから、同じく病気を抱えて悩んでいる方、命に関して考えてる方、又考えていない方に対して、なにか発信していけたらいいなと思いますね。私の経験をお話しすることで、苦しむ方の心を助けることに役立てるなら嬉しいです。執筆や講演活動などで、世の中に貢献することができれば取り組んでいきます。子供にそういう姿を見せることも、いいことだと思いますし。またライフワークとして写真は続けていきたいです。なにかを表現するためのツールとして写真を使っているので、歌とかお芝居とか他の形で表現している人とも共感できることがあればいいなと思いますね。
――講演で一番伝えていきたい事は何ですか?
いまの自分があるという事は、奇跡を重ねているんだいうことです。誰だって病気になる可能性もあるし、事故に合う可能性だってある。私もこの年でこんな病気になるとは思っていなかったのですが、この体験を通して、「人間が生きてることは素晴らしい。奇跡に奇跡を重ねて、ここまで来れて、いま生きてるんだ」とすごく感じるようになりました。普段は生きてること自体をあまり考えませんよね。「生きていることが奇跡だ」なんて口に出すこと自体、恥ずかしいみたいな風潮があったり。でも全然恥ずかしいことじゃない。必死に生きようとして、わが子を心底無事に産んでやりたいと、頑張って。本当にそう思いました。 私は自分の体験をお話することしかできませんが、それを通じて、皆さんの毎日が少しでもいつもと違う毎日に見えたら、とても嬉しいです。
―本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきましてありがとうございました。
文:佐野裕 /写真:上原深音 /編集:鈴木ちづる
(2008年10月30日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
間下このみましたこのみ
写真家
1978年、東京都葛飾区生まれ。2歳でモデル事務所に所属。4歳の時に出演したキッコーマンCM「ガンバレ玄さん」で、一躍脚光を浴び人気沸騰、芸能界入り。TBS系ドラマ「スクールウォーズ」やフジテレビ系バ…
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