いつまでも、健康な身体で活躍し続けたい―。多くの人々がそう願い、巷にも健康についての情報が溢れかえっています。時代や場所が変わっても、健康な身体と心が必要なことは変わりません。歴代3人目の日本人メジャーリーガーとして注目を集めたマック鈴木氏と、鈴木氏を支え続けてきたトレーナーの吉田輝幸氏は、トップアスリートたちの世界で活躍するため、正しいトレーニングを続けてきた人物です。世界を見てきた2人だからこそ語れる、未来の可能性を広げるために必要な身体づくりと精神の保ち方をお伺いしました。
正しい身体づくりの知識で、アスリートをサポート
――今のような交流が始まったのは、いつ頃からですか?
吉田:20年前に僕が大学を卒業して、パーソナルトレーナーの道を進むため渡米していたときです。その頃、渡米されていたマックさんをトレーニング場で見かけました。とても声をかけられる立場ではなかったので、「あのマック鈴木さんが、目の前でスクワットしてる!」と、マックさんの姿を興奮しながら眺めていました。「出会った」というよりは、僕が一方的に見ていたんです.
鈴木:そのあとトレーニング中に知り合ってから、濃い交流がはじまったよね。年齢も同じで会話も合うから、今までずっとトレーナーとして付き合ってもらってる。吉田くんは、僕のバロメーターを理解しながら、「今日はこれだけやっておきましょう」と手を抜きたいタイミングもわかってくれます。加減の調整も、吉田くんは上手ですね。
――吉田さんは、陸上のリレー選手の経験を踏んでから、パーソナルトレーナーに転向されました。何かきっかけがあったんですか?
吉田:日本で陸上選手として活動していた時代、僕はよく怪我をしていたんです。そのとき、「なぜ、こんな一生懸命トレーニングしているのに、怪我ばかりするのだろうか?」と疑問に感じました。前職の会社の代表が、マックさんや他のメジャーリーガーのトレーニングを担当しているのを見たり、自分も教えていただいたりする中で、アメリカと日本のトレーニング方法が全く違うことに気がついたんです。当時はインターネットもまだ浸透していなかったので、日本にいてもアメリカ式のトレーニングについて最新の情報が入ってきません。日本のトレーニングの遅れを感じ、正しいトレーニング方法をしっかりと勉強して、一般の方も含めてアスリートの方々のサポートができれば、と考えました。
鈴木:僕が渡米していたときは、吉田くんが日本人の身体にフィットしたトレーニングプログラムを教えてくれて、オフで日本に帰国したとき、実際にそのトレーニングをしてもらうこともありました。日本のプロ野球チームに入ったのが2003年で、僕はそれまでアメリカのアリゾナ州に14年間住んでいたんです。吉田くんは勉強のために、アリゾナにある有名なトレーニング施設に来ていて、そこで会うこともありましたね。
スポーツに励む子どもたちに、将来の選択肢を
――鈴木さんは16歳でアメリカに留学していますが、英語を話せる状態で渡米されたんですか?
鈴木:とんでもない、話せるわけがないです。「英語を覚えなきゃいけない」としんどさはありましたけど、16歳でまだ脳が柔らかかったので、英語は自然と身につきました。それと同じように、日本人は自然と英語を習得できないと、世界から取り残されると思います。2020年には東京オリンピックがありますから、「東京駅まではどう行けばいいの?」と外国人に英語で聞かれるのも想像できますよね。
吉田:目に見えていますね。僕も、英語で道を聞かれているかもしれません。
鈴木:でしょう?そのとき、英語で答えられないと、「日本人って頭が良いのかと思っていたけど、英語さえしゃべれないの?」と外国人に思われてしまう。トヨタ自動車の豊田章男社長が英語でスピーチをしたように、英語を話せる人が増えなければ、世界に取り残されてしまいます。義務教育で、これだけ英語の授業を受けているのに、日本人の多くは英語を話せません。英語を話せる人は、海外に行ったとしても負けていませんよ。
吉田:海外でマックさんは、その現場をたくさん見ていますよね。
鈴木:海外で活躍している、英語を話せない日本人のメジャーリーガーは、当事者同士でコミュニケーションを取れへんからね。お金と地位がどんなにあったとしても、英語が話せなければ、「なんか足りていないな」とみなさん感じると思いますよ。
吉田:そうですよね。英語をしっかりと話せるメジャーリーガーは、マックさんしかいないと思います。
鈴木:とくに高校球児たちは、高校3年生まで野球をやって、何も残らない子が多いじゃないですか。よく聞くのが、スポーツを極めたあとの「喪失感」です。甲子園で燃え尽きて、「今からどうすんのやろ?」っていう。
吉田:そうなると、お先真っ暗なイメージです。
鈴木:だから、僕の第2の人生としての夢が「英語野球教室」です。野球を引退して、ひとつの夢は叶いました。だけど、生きる目標がなくなったのも事実なんです。2人の子どもが生まれて、「この子たちのために何かしたい」と考えたとき、新しい夢を叶えることが僕の活力になっています。野球選手を育てるだけじゃなくて、大手の総合商社にも入社できるような子どもたちを育てたいですね。野球と一緒に勉強も頑張っていれば、野球以外の可能性も広がるじゃないですか。野球だけ頑張って勉強を疎かにすると、野球がダメになったときに、子ども自身が大変になりますから。
心構えと継続できる環境が、チャンスを掴む土台
――なぜ、留学先としてアメリカを選んだのでしょうか?
鈴木:留学先は、僕じゃなくて親父が決めたんです。
吉田:当時のマックさんには、「選ぶ権利」がなかったんですね。
鈴木:そうです、しょうがなくですよ。アメリカで英語が話せないことよりも、親父の方が怖かった。何でも「いいよ、いいよ」じゃなくて、ある程度ハードルを乗り越えないと、やりたいことができない家庭でした。だから親父に、「アメリカに行きなさい」と言われて、電気工事のアルバイトをしながら旅費を稼ぎ、学校を辞めたあと、2ヶ月後に渡米しました。そして、団野村さんが経営に携われていたチームに球団職員兼練習生として参加したんです。
――渡米されたあと、仕送りがない時期はどうしていましたか?
鈴木:留学先では、野球チームの洗濯係とか、試合で使うボールを管理する仕事を与えてもらいました。いろいろな仕事をしましたけど、メインは洗濯係です。その当時、「言葉が通じないのは、こんなに不便なことなんだ」と感じましたね。当時やんちゃだった16歳の僕は、日本にいるような感覚でアメリカ人選手たちと接するので、何回も彼らと衝突したことを覚えています。たとえば、30人分の練習着とユニフォームを2回洗濯すると、Tシャツや靴下がなくなることは日常茶飯事なんです。そうすると、「where is my socks?(ソックスはどこいった?)」と言われるんですね。でも、相手の態度で怒っていることはわかるんですが、英語がわからないので、何を言われているのか理解できませんでした。
――そのような経験をして、1994年にはシアトル・マリナーズとマイナー契約をされたんですよね
鈴木:はい。高校一年生の冬に学校を退学して、親父に半ば強制的にアメリカへ行かされ、洗濯ばかりしていた僕が、翌年には再渡米してシアトル・マリナーズと契約して…と運がほとんどです。今だったら、17歳の子どもは就労ビザを取得することはできませんが、当時だからこそビザを取得できました。それに、団野村さんが持っていた球団に就職していなければ、いくら才能があったとしても、無理やったと思います。運ですね。
吉田:その運を掴むためには、どんなことが必要だと思いますか?
鈴木:「準備する」ことと、「頑張ることを継続する」しかないです。僕がいつも子どもたちに伝えるのは、「『よっしゃ、テスト始めます!』っていきなり言われたら、どうする?」って。そうすると、みんな心の準備ができていないから、「え?!」って言うんです。でも、「一週間後にテストだとわかれば、準備できるよね」と言えば納得してくれます。それと一緒ですよ。僕らアスリートは、いつチャンスが来るかわからないからこそ、いつチャンスが来ても良いように準備しています。
吉田:トレーニングもそうですけど、継続するのは、なかなか難しいじゃないですか。マックさんは、アメリカで長い下積み時代があって、洗濯係も継続して続けてこられました。「途中で投げ出したいな」と諦めそうになったとき、「継続するためのコツ」みたいなものがあるんですか?
鈴木:その当時、忙しかったから良かったんでしょうね。あっという間に次の日が来るので、落ち込んでも仕方ありません。あとは、もちろん、ご本人の意識の部分として、諦められない環境が必要かもしれません。諦めてしまう子たちは、選択肢が多いんだと思います。選択肢を与えすぎると、子どもなので楽な方に逃げてしまうじゃないですか。たとえば、おやつにポテトチップスと煮干しが出たら、ポテトチップスを食べたいでしょう? それに対して「子どもが悪い!」と言うのではなく、ポテトチップスを買い与える親のせいにしないと、子どもがかわいそうになるわけです。自分の意思だけで継続し続けるのは、今の僕でも難しいですわ。
吉田:習い事などをはじめても、子どもは継続できないことがあります。もし自分のお子さんがそのような状況になったら、どんなアドバイスをされますか?
鈴木:僕はたぶん、「じゃあ、俺もお前の親を辞めたるわ」って言うかもしれない。
吉田:言いそうですね。
鈴木:それで、「一瞬の気持ちで辞めたいって言い出すなら、俺も親を辞めるって言ったらどうする? お母さんもお父さんも、お前の希望する習い事に通わせたいから、仕事を一生懸命している。それなのに辞めたい。じゃあ、俺もお前が泣いとおときとかしんどいから、俺も親を辞めるわ」って言うと思います。
吉田:すごいな。それはやっぱり、いろいろ経験しているマックさんだからこそ、出てくる言葉ですよね。
鈴木:僕は、親が厳しい環境に放り込んでくれたから、留学中の厳しさや辛さの中で、チャンスを得たわけじゃないですか。親に甘やかされていたら、たぶん野球はしていなかったと思います。それを親父が将来のことを見据えて、16歳の子どもをたった一人でアメリカに送り出してくれたんです。当時、親父は心配した母親とすごく揉めたんですよ。でも親父が、「こいつには絶対に必要なことだから」って、僕をアメリカに行かせてくれました。だから、海外に行った僕よりも、行かせた親父の方が偉いと思っています。
健康な身体で未来を切り開いていく
――吉田さんは、これからどんなことを目指していらっしゃいますか?
吉田:身体や栄養についての正しい情報を、もっと広めていきたいですね。僕は、「身体を変え、常識を変え、世界を変える」をモットーに仕事しています。世の中には、身体についての間違った情報が蔓延しているので、必要な情報を伝えて、トレーニングの必要な人たちの世界が変わるような活動を続けていきたいです。
鈴木:吉田くんは、何歳まで働くん?
吉田:働けるだけ、働きます。60歳になったら、田舎でジムを作って、自分も含めた地域の人たちが、身体を動かせるような施設を作りたいんです。あとは、子どもたちの活動する場所と家が一体となっている場所に住んで活動していきたいな、と思っています。
鈴木:じゃあ、それに向かって今も頑張ってんのや。
吉田:そうですね。日々過ごしていく中で、もう一段階人生があるとしたら、60歳くらいから、そうなりたいですね。マックさんは英語が話せるし、永住権もあるから、将来はご家族で海外にも住めますよね。
鈴木:10年後、20年後は、世界がどうなっているか、わからないじゃないですか。だから自分の子どもたちには、日本だけにしか住めない選択肢よりも、アメリカにも住める選択肢を与えてあげたい。そうすれば、子どもがアメリカ寄りになったときも、「じゃあアメリカに住みなさい」って言えますよね。アメリカに住みたくても、日本にとどまることしかできない子どもが、たくさんいます。アメリカで永住権を得られたのも、16歳で留学させてくれた親父のおかげなんです。
――これから、鈴木さんの教室に通う子どもたちは、「あのとき、親が英語野球教室に通わせてくれてよかった」と感謝するようになるかもしれませんね。
鈴木:そうなれば、いいですよね。あとは、子どもが20歳になったとき、僕はもう60歳になるでしょ。だから、そのときに、「膝が痛い、内臓が痛い」と言っているヨボヨボの60歳になるよりも、健康でいたいと思うんです。そのために、次の30年間を生きようと思っていますから。やっぱり健康を大事にしていきたいですね。
――ありがとうございました。
(2017.01.27)
マック鈴木()
日本プロ野球界(以下、NPB)を経由せず、メジャーリーガーになった初の日本人。現在は、メジャー、NPB、アマチュアなど野球界全体に携わる傍ら、淡路島でスポーツジム「サンライズマックジム」も運営。
吉田輝幸()
1975年埼玉県生まれ。国士舘大学体育学部卒業。 ビジネス アスリートコーチ、ワークマン アスリートコーチ。ビジネスマン、ワークマンを元気にするフィジカルコーチとして活動中。活動の理念として『カラダ…