目次
- 1 50年以上にわたり、災害現場を調査されてきた山村さんにとって、特に記憶に残り、後々教訓となった出来事は何でしょうか。
- 2 災害現場を調査するに当たって、前もって必ず準備するもの、また山村さんの心構えについて聞かせてください。
- 3 1964年と今現在で防災に対する専門家の取り組み、一般市民の意識は変わりましたか?
- 4 ハザードマップは各自治体などでも配られていますが、実際に活用しきれていないという声をよく聞きます。活用方法のアドバイスがあれば教えて下さい。
- 5 大きな関心事の一つに、東京の直下型地震、南海トラフ地震があります。山村さんがこれだけは最低限、各世帯、個人で前もって準備していて欲しいことは何ですか?
- 6 災害はいつどこで起こるか分かりません。小さい子どもを持つ親、企業で働く人、学校など、それぞれ気を付けることがあれば教えて下さい。
- 7 最後に、危機に直面した際に、山村さんが大切にされていることがあれば教えて下さい。
今回の「人生最大の危機」は、特別編として「危機に直面する時の心構えと対策」をお届けします。地震を始め、津波・台風・大雨による土砂災害・火山活動など日本には自然災害がつきものです。いつ「その時」がやってくるかわかりません。もしもの時に慌てず自分や家族、仲間を守るためにできること、準備と対策を頭にいれておくことがとても大切です。今回はいつ起こるか分からない災害に対する心構えを特別に防災システム研究所 所長・山村武彦さんににお聞き致しました。是非ご覧ください!!
50年以上にわたり、災害現場を調査されてきた山村さんにとって、特に記憶に残り、後々教訓となった出来事は何でしょうか。
東日本大震災も大災害ですが、特に記憶に残っているのは23年前の阪神・淡路大震災です。それは1995年1月17日早朝でした。その日に開催される予定だった「第4回日米都市防災会議」に出席するため私は大阪に居ました。実はその1年前の1994年1月17日、ロサンゼルス・ノースリッジ地震が発生しています。日本時間だと1月18日です。翌日現地に向かいました。死者57名、高速道路崩壊など、米国地震史上最も経済損失が大きいといわれた災害です。その地震の1周年目、意識の低い関西での防災会議開催が企画され、会場の大阪国際交流センターに近いホテルに前泊していたのです。
5時46分、突き上げる揺れで目を覚ましました。新潟地震(1964年)を契機に防災アドバイザーを志し、すでに災害現場経験はあったものの、大揺れの渦中にいたのは初めてです。停電の中、手探りでバッグから懐中電灯と携帯ラジオを取り出しました。しばらくして「淡路島北端部を震源とするマグニチュード7.2、各地の震度、大阪、京都、岡山、震度5」というラジオを聴いた瞬間「何か変だ」と感じました。震源に近い神戸海洋気象台の震度が真っ先に出るはずなのに、神戸の震度が出てない。「神戸がやられた!神戸に行く」と決断しました。後で調べると、神戸海洋気象台はシステム損傷で情報が発信できずにいたのです。
タクシーが暗い大阪の街を抜け武庫川を超えると様相が一変しました。1年前、ロサンゼルスで高速道路崩壊を前に、政府関係者は「日本の高速道路は関東大震災級に耐える構造なので、このようなことは絶対起きない」と断言していましたが、阪神高速道路が各所で崩壊していました。一般道も段差や亀裂が走り、軒並み電柱が倒れ、あちこちから煙が上がるなど、2時間後の神戸はまるで戦場でした。防災大国の自負と関西に地震は起きないという根拠のない安全神話は、一瞬にして社会基盤ごと崩壊してしまいました。私自身、埃にまみれ色を失った神戸の姿に打ちのめされました。約24万棟の住宅が全半壊し、約35,000人が倒壊家屋に閉じ込められました。その大半は防災関係機関ではなく、家族や近くにいる人に助けられたのです。それまで「自助」「共助」「公助」が重要とされていましたが、救助活動を手伝いながら私が「近助」という言葉を思いついたのはこの時でした。自助、共助も大切ですが、いざという時は近くの人が近くの人を助ける「近助」がより大切と体感したのです。道路が損壊する緊急時は、近くの人しか助けることができないのです。地域でも企業でも、向こう三軒両隣の「防災隣組」や「企業防災隣組」、そして「近助の精神」こそ、災害列島に住むものの作法だと思うのです。阪神・淡路大震災は「真実と教訓は現場にあり」と、再度私に防災の原点を示してくれた忘れられない災害なのです。
災害現場を調査するに当たって、前もって必ず準備するもの、また山村さんの心構えについて聞かせてください。
広域大規模災害の場合、消防・警察・自衛隊などによる救援・救助、捜索活動が最優先されます。東日本大震災の場合、想像を絶する大津波に襲われ未確認情報で行方不明者数万人の報道もありました。発生直後、メディアなどから現場を見てコメントしてほしいとか、被災者インタビュー依頼などが殺到しました。それは私が現場主義を掲げ、いつも率先して現場に行くことを知っているからだったと思います。
しかし、広域大災害では、一般車が多数現場に向かえば損傷を免れた数少ない道路さえ渋滞を引き起こし、救援・救助活動を妨げる要因となります。ですから、東日本大震災のとき私が最初に現場に入ったのは、救助捜索活動が一段落した1週間後からでした。その間、テレビなどで被災地支援、頻発する余震に対する安全行動、要援護者への心配りなど、後方支援コメントに傾注しました。そして、1週間後に現地に入ることになって、家族に連絡し現地調査用トランクにヘルメット、カメラ、充電器、携帯PC、長靴、雨具、防寒着のほかに食料も詰めて届けてもらいました。ちなみに私の家には非常食などは約3か月分備蓄しています。ですから、直後にスーパーやコンビニの棚が空になった時も、家族の食事を心配せず仕事に専念することができました。広域災害の場合は、現地での物資調達は被災地に迷惑をかけることになるので、極力非常食持参で出かけます。また、状況によっては被災地に入らない選択もあります。
77人の犠牲者を出した平成26年8月豪雨(広島土砂災害)の時、テレビ局の報道関係者と共に当日朝一番の飛行機で広島に入りました。局所的とはいえ、土砂災害166ヶ所、うち土石流107ヶ所・がけ崩れ59ヶ所、全半壊建物255棟、床上浸水1.301棟という凄まじい自然の暴力でした。
テレビ局側では、ヘリで状況を把握した後、私もキャスターと共に徒歩で現場に入る手はずでした。しかし、私は土砂に埋まった住宅街に入るようにという再三の要請を拒否しました。4階建てビルの屋上から被災住宅街の惨状を見たあと決断したものです。茶色い真砂土に埋まった住宅街には多数の行方不明者がいて捜索隊が土砂の山と格闘している光景だったのです。そこへテレビカメラとレポーターたちがずかずかと入っていいはずはないのです。彼らが踏みつける土砂の下には住民が埋まっている可能性があるのです。それによってさらに生存空間を奪ってしまうかもしれないのです。多数の不明者がどこに流されているかわからない大量土砂堆積場所に入っていいのは救助隊関係者だけです。もし、自分が行方不明者の家族であったら、それを見てどんな気持ちになるか考えるまでもなく自明の理です。災害現場に臨む信条や持って行くものを問われれば、被災者優先、行方不明者の捜索救助優先というごく当たり前の最低限のマナーを忘れないことと答えます。他社に遅れまいと土砂の中に入っていくキャスターの後姿を、私はただただ残念な気持ちで見つめていました。
1964年と今現在で防災に対する専門家の取り組み、一般市民の意識は変わりましたか?
私が防災に係るきっかけは、東京オリンピックの年に発生した「昭和39年新潟地震」です。当時私は21歳で、まだ将来の進路を決めかねている普通の学生でした。6月16日13時過ぎ、新潟沖を震源とするマグニチュード7.5の地震が発生します。都内も少し揺れましたが、そのころはまだ防災のことは念頭になく、ただ新潟に帰省中の友人が心配でした。何度か電話しても通じませんし、テレビでは無残に崩れ落ちた住宅の映像が流されていました。友人の安否が気になって、いても立ってもいられず、翌朝運転を再開した信越本線で新潟に向かい、途中からはヒッチハイクのようにして新潟市内に入りました。幸い友人の家は瓦が落ちた程度で家族も無事でした。しかし、石油貯蔵施設の火災で空は黒い煙に覆われ、遡上津波や液状化で駅前周辺はひざ上くらいまでが油交じりの泥水でした。線路がねじ曲がり、電柱は倒れ、道路が陥没、鉄筋コンクリートの県営住宅も傾いていました。当時は液状化とは言わず「流砂現象」と新聞に書かれていたのを覚えています。当時はまだ「防災」「ボランティア」「危機管理」などという言葉さえありませんでした。
たった数分の地震で多くの死傷者を出し、家を壊し、築き上げてきた生活や社会基盤を一瞬にして破壊してしまう地震。初めてみる地震の凶暴さに私はショックを受けました。その後、10日間くらい水運びや泥出しなどのボランティア活動をしてから東京に戻り地震について調べました。すると関東大震災(1923年)以降、約40年間に100人以上の犠牲者を出す地震が10回も発生しているのです。つまり、日本という国は平均約4年に1度大地震に襲われる世界有数の地震国であることを知ったのです。大地震が起きるたびに大騒ぎし、しばらくすると、それを忘れ、そしてまた地震が起きるという不毛な繰返しのように見えました。それまでは、漠然と社会の役立つ仕事をしたいと思っていましたが、地震をなくすことはできないまでも、準備や対策をすれば被害を少なくすることができるのではないかと考えました。社会の安全、災害を防ぐ研究をしたいと思うようになったのです。とはいっても、防災、危機管理という言葉すらない時代でしたので、どこにも防災などを教えてくれるところはありません。そこで、災害現場を多角的に調査しその教訓を多くの人に伝える努力をしようと決断しました。以来、世界中で発生する災害現場を回ることになったのです。
様々な災害現場を回ってきて思うのは、1964年当時と比較すると、自然災害に関する市民の知識は確実に向上しています。その一方、防災の意識と準備はどうかというと、当時とあまり変わっていないように思われます。大規模災害が発生した直後は、備蓄や対策の必要性がクローズアップされますが、5年過ぎると風化していくパターンが今も繰り返されています。日常業務・生活に追われるという事もありますが、それは「感情弱化バイアス」の影響があると思っています。バイアスというのは偏見とか思い込みなどの認知心理のことをいいます。いい思い出はできるだけ覚えていようというのは当然ですが、嫌な経験やネガティブ情報はできるだけ忘れたいという無意識のバイアスが働くのです。「鉄は熱いうちに打て」と言いますが、鉄はすぐ冷めます。防災・危機管理意識を保つには繰り返し打ち続ける(研修・啓発)するしかないのです。同じ地域や同じ企業に毎年講師としてお招きいただいているところもあります。異なる災害が次々と発生することもありますが、毎回違った視点で防災・危機管理の話をさせていただいています。これは手前味噌で恐縮ですが、私の講演を聞いた人のアンケート集計によりますと、受講者の満足度は平均95%となっています。それは「真実と教訓は現場にあり」を標榜し、50年経た今も初心を忘れず災害現場を回って得た実践的教訓を愚直に伝え続けていることへの勲章と思っています。防災・危機管理は自分や家族の生命がかかっています、企業の存廃がかかっているのです。決してきれいごとではありません。形式的な対策やマニュアルは役に立ちません。そして、システムやハードも大切ですが一人一人の意識啓発にコストとエネルギーを傾注することが、真の安全・安心社会につながるのです。
ハザードマップは各自治体などでも配られていますが、実際に活用しきれていないという声をよく聞きます。活用方法のアドバイスがあれば教えて下さい。
自分たちの地域リスクを把握することは極めて重要です。ですから、自治体が作成し公開するハザードマップを真ん中にしてリスクの状況などを家族、地域、職場で話し合い、いざという時の避難経路などを確認しておくと、発災時にも慌てず対応できると思います。
ただ、ハザードマップは市町村ごとにつくられますが、一定の目安として参考にすべきであって、とらわれてはいけないと思います。例えば、平成27年関東・東北豪雨災害のときですが、鬼怒川が決壊し常総市は広い範囲で大洪水となりました。避難勧告が適切に出されなかったなどの反省点はあったものの、避難勧告が出された地域でも避難しない人たちがかなりの数に上りました。逃げ遅れた人はヘリコプターで1,343人、地上部隊で3,128人の合計4,471人が救助されています。昼間の洪水でしたので、空と陸から救助もできたのですが、もし夜間の洪水であったら救助は困難でありさらに多くの犠牲者を出したものとみられています。救助隊に救助された住民にインタビューしました。すると、「避難勧告が出た時、弱い雨しか降っていなかったので、避難する必要はないと思った」というのです。「まさか鬼怒川が決壊するとは思わなかった」とも。鬼怒川は栃木県の山間地に降る雨や流域の沢や中小河川の水が流入し流下します。その時、上流ダムの降水記録によると、24時間雨量は438㎜~551㎜に達していました。未明に降った大雨が数時間後に常総市付近で増水し堤防を破壊し洪水となったのです。茨城県常総市が配布していた洪水ハザードマップは、市域の鬼怒川周辺の危険度を表していても、離れた山間地にどれだけの雨が降ったら下流域が危険かの因果関係やデータは示されていませんでした。本来、長い流域を持つ河川のハザードマップは流域ハザードマップとして、山間地降水量によるリスク度を明示する必要があります。いずれにしても、ハザードマップなどを参考にし自宅周辺のリスクを確認・共有するための防災家族会議を開催することをお勧めします。
大きな関心事の一つに、東京の直下型地震、南海トラフ地震があります。山村さんがこれだけは最低限、各世帯、個人で前もって準備していて欲しいことは何ですか?
各世帯や個人で最低限度の備蓄をしてほしいという事です。よく「水・食糧の備蓄は3日分」と言われてきましたが、3日分では足らないのです。3日ですべての家庭に水・食料がいきわたる災害は、備えなくても大丈夫な規模の小さな災害です。災害に備えるというのは大規模災害に備えるという事です。大規模災害だと、電気、ガス、水道、電話、道路、公共交通機関などの社会インフラがすぐに復旧しません。流通は混乱しコンビニやスーパーの棚は空っぽのままです。特に首都圏は人口密集地です。物資がいきわたるまでは自力で対応できるようにすべきです。大規模災害に備えるのであれば、最低でも7日分の備蓄が経験則です。
そのためにも実施してほしい訓練は「在宅避難生活訓練」。災害発生時は自治体が指定する避難場所に行けばいいのでは、と思う方もおられると思います。避難所と避難場所は違います。大規模な火災や津波の恐れがあるとき、一時的に様子を見る場所が避難場所です。家が壊れたり、危険が迫っている地域など、家に帰れない人を一時的に保護する施設が指定避難所です。大規模地震発生時は数千人が避難所に押しかけてきます。しかし、避難所の収容規定では「家に戻れない人が優先」となっています。人口が密集する都会ほど、その地域のすべての住民を受け入れることはできません。家が壊れず、安全が確認できたら自宅で暮らすことになるのです。これまでの大規模災害の例でみると約80~90%の住民が自宅で暮らしています。では、避難所に行けばそれでいいのかというとそうでもありません。阪神・淡路大震災のとき、3か月間に避難所で亡くなった人は約900人に上ります。持病が悪化したり、体調を崩したりしての関連死です。それほど避難所は劣悪な環境ということなのです。平成28年熊本地震では地震による直接死は55人、その3倍の192人は避難生活中に亡くなった関連死です。停電、断水、ガス停止、それでも自宅が壊れていなければ自分の家で寝た方がよく眠れるのです。そしてインフラが途絶えた中でも1週間分の備蓄があれば生き延びることはできます。
そこで提案したいのが避難所暮らしをしないで済むように、建物の耐震化、室内の転倒落下防止策とガラス飛散フィルムの貼付です。さらに、やってほしい訓練が「在宅避難生活訓練」です。それは電気、ガス、水道、電話を停めて1日暮らす訓練です。これは町内会やマンションでもできますが、自宅だけでもできます。やってみるとわかりますが、停電だと半日もたてば冷蔵庫から水が垂れてきて、食品は傷み始めます。保存性の良い、調理しないで食べられる非常食の備蓄は不可欠。懐中電灯1個ではうち中暗く、ランタンが必要だとわかります。下水管が壊れてトイレが流せず、換気扇が停まっていれば猛烈な悪臭で非常用トイレと消臭剤・固形剤の備蓄が不可欠と理解できます。このように実際にインフラが停まったと思って暮らしてみると、発災時に本当に必要なものが見えてきますから、ぜひ「在宅避難生活訓練」を行ってください。
災害はいつどこで起こるか分かりません。小さい子どもを持つ親、企業で働く人、学校など、それぞれ気を付けることがあれば教えて下さい。
大規模災害発生時、離れた家族と連絡が取れないことはとてもつらいことです。ですから、災害発生時の連絡方法をあらかじめ決めておくといいと思います。災害発生時、電話やメールはつながりにくくなります。それでもつながる可能性があるのが災害用伝言ダイヤル171と携帯やスマホの災害掲示板です。緊急連絡方法の順番を確認し各自がメモを携帯することが大切です。
もう一つの連絡方法は「三角連絡法」です。災害発生時、県外から被災地及び被災地内の電話やメールが輻輳状態を防ぐために一定の通話通信規制が行われますので、かかりにくい状態になります。被災地から県外にかけることが可能な場合があります。そこで、家族と学校や会社など被災地内で連絡が取りにくい場合は、県外の親戚知人宅を連絡中継所にして、離れた家族が連絡中継所に電話をかけて連絡を取り合うことができるのです。いずれにしても、事前に家族防災会議を開いてこうした連絡方法を共有しておく必要があります。できれば連絡中継先となる親戚へも相互支援できるように事前に協力を要請しておくといいと思います。
また、自宅と学校や会社が離れている場合、大規模地震発生時には帰宅困難者になる可能性が高いと思います。それでも学校や会社であれば、一時的に保護してくれます。しかし、通勤通学途上で地震が発生した場合、混乱状態に巻き込まれてしまいます。そこで、通勤、通学途上で知人や親せき友人がいたら、いざという時の一時避難場所とさせてもらえるように事前の了解を得ておくことをお勧めします。当然相手が困った時はこちらが助けられる相互扶助協定です。そして、向こう三軒両隣の防災隣組をつくっておくことが肝要です。すべての防災対策は事前対策です。安全・安心は誰かが与えてくくれるものではなく、自ら努力して勝ち取るものなのです。
最後に、危機に直面した際に、山村さんが大切にされていることがあれば教えて下さい。
危機に直面したとき、まず考えるようにしているのは「状況の洞察・把握」と「展開予測」です。予期せぬ災害や事件に遭遇したとき、できる限り情報を集めます。しかし、完璧な情報を得ることは困難です。その場合、限られた未確認情報や断片情報から状況を洞察し概要を把握すること。そして、このあとさらに何が起き、どう展開していくかを予測し、今自分にできることは何か、そして優先すべき行動を明確することが重要と考えています。
平成28年熊本地震のとき、前震(4月14日)の翌日テレビ局のスタッフと一緒に熊本に入り、益城町の惨状などを調査し状況分析などをして現場中継に出演しました。その夜、熊本市内のホテルで本震(M7.3)に遭遇します。前震の震源の深さが10㎞~12㎞でした。こうした震源の浅い地震は余震が頻発することが経験でわかっていました。その夜も、余震を警戒していて荷物はまとめておき、ジーパンを履いたまま枕元に懐中電灯を置いて寝ていました。寝入ってすぐ震度6強の揺れで目を覚まします。上下動が激しく、ビジネスホテルの4階は激しく揺れました。身を守るために今何をすべきかを考えます。実はいつもそうですが、ホテルにチェックインした後、建物が鉄筋コンクリート造りであることや、部屋と非常階段の位置関係、非常口を示す誘導灯などを確認しておきました。ですから、すぐに倒壊することはないと思いました。ただドアが変形すれば閉じ込められる恐れがあるので、懐中電灯を頼りにドアを開け避難路を確保しました。実際そのホテルでは閉じ込められた人もいましたので、スタッフと一緒に安否確認や救出作業を行いました。そして、建物を点検すると主要構造部である柱に一部クラック(亀裂)が見受けられましたので、ホテルの責任者に「このあとも余震が続くと思われるので、全員建物の外へ避難させるべきです」とアドバイスさせていただきました。翌日、専門家の応急危険度判定でも赤紙(立ち入り禁止)が貼られました。
日本列島は自然に恵まれた美しい国です。しかし、その反面、地震、風水害、土砂災害、噴火など自然災害が多発する国でもあります。いつでもどこでも大規模災害が起きると思って覚悟し、準備することが災害列島に住むものの作法だと思っています。防災・危機管理の要諦は「悲観的に準備し、楽観的に行動する」ことが肝要です。そして、いったん災害が発生したら、元気な人は近くの人を助ける人になってほしいと思っています。そうすれば、日本は絶対安全ではないかもしれないが、ずっと住みたい安心できる国になるのです。
山村武彦やまむらたけひこ
防災システム研究所 所長
東京都杉並区出身。1964年、新潟地震でのボランティア活動を契機に、防災・危機管理のシンクタンク「防災システム研究所」を設立。以来50年以上にわたり、世界中で発生する災害の現地調査を実施。2000年、…
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