210安打達成の年と、その前の2年、僕はオリックスで打撃投手を務めていました。
その間に、印象的な出来事がいくつかあるので、
今回はその話をしたいと思います。
僕が初めてイチロー選手をみたのが、20才の時。当時は鈴木一朗。
僕の1つ年下の選手なのに、バットを握るとまさに別人で、
19才とは思えないバットコントロール、芯にあてる技術、これがプロだな、
と僕は感心しっぱなしでした。
4つ年上に現在メジャーで活躍している田口壮選手がいて、
田口さんとも変わらない技術で、初めて年下の選手で尊敬できる選手に会った。
それがイチロー選手です。
そんなイチロー選手が、もし1年間試合に出場していれば、
19才の時でも3割を打っただろうと今でも僕は思います。
しかし、当時の打撃コーチ・監督と、打撃での理論があわず、
2軍に行くことを言い渡されたのです。
『奥村さん2軍に行ってきます。』と、言葉を残し、
涙ながらにグラウンドを後にしたイチロー選手の背中がとても印象的で、
あの時の雰囲気は今でも鮮明に覚えています。
それでも2軍と1軍に分かれた僕とイチロー選手は、寮でよく話をしました。
イチロー選手の部屋でよく尋ねられることは、
常にイチロー選手より上にいる(超一流の)選手の話です。
特に、当時ダイエー(現ソフトバンク)ホークスに在籍していた佐々木誠選手
(現在、セガサミー監督)の話をよくしました。
なぜなら、当時メジャーリーグで活躍できる選手は、
佐々木選手か、秋山選手(当時西武ライオンズの主砲)と言われた時代で、
同じ外野手として、3割30本塁打30盗塁できる選手は
他にいないと言われていたからです。
イチロー選手の部屋には、
メジャーリーガーの有名な選手のユニフォームなどがたくさんあり、
当時からメジャーで野球をしたい気持ちを持っていたと思います。
佐々木選手はイチロー選手の目標でもあり、
僕は佐々木選手に本当に可愛がってもらっていたので、
僕たちの会話の中では、佐々木選手の名前がよく出てきました。
そんなイチロー選手の影の努力を僕は知っています。
2軍にいた当時、みんなが寝静まったころ、
1人で室内練習場で打撃練習をしていたのです。
そして、イチロー選手は2軍での記録を塗り替え、次の年、仰木監督が就任され、
登録名が鈴木からイチローに変わり、オリックスの中心選手となっていきました。
仰木監督から1番イチローと任せられたことで、
自覚と責任をもち、結果を出せるようになったのです。
そして、210安打を達成した時のイチロー選手は、やはり他の選手とは違いました。
イチロー選手はこう言いました。
「実は210安打というヒットを打った中、
自分の納得がいくヒットは5本ぐらいなんです。
おもしろいですよね。結果としてヒットになってるんですよ!でもその反面、
三振したアウトの中にも、
僕にとって納得のいくスイングがあったりするんですよ!」 と。
他の選手なら、数字が残ればどんな当たりのヒットでも喜ぶのに、
イチロー選手は違う。
自分自身へのこだわり、やるべき事も具体的にイメージとして明確にあるからこそ、
記録ではなく、内容として本当に良かったかどうかを
自分でしっかりと考えるのです。
だから準備すべきことも明確だし、
結果的には継続して結果を出すことができるんですね。
前回のコラムでも書きましたが、<何をすべきかを考えて行動する>
それがイチロー選手なのです。
奥村幸治おくむらこうじ
ベースボールスピリッツ代表
イチロー選手が210安打を達成した時に、イチロー選手の専属打撃投手を務めていたことから“イチローの恋人”としてマスコミに紹介され、以来コメントを依頼されてのテレビ出演多数 。 1999年に中学硬式野…
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