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コラム 人権・福祉

2011年10月25日

私が考える障害、そして社会のあり方(1)

 秋といえば、「スポーツの秋」「文化の秋」など様々なものが浮かんできます。皆さんはどの秋なのでしょうか?「食欲の秋」に流されそうな自分を抑えつつ、トレーニングに励む毎日です。
 今月からは「障害」について、皆さんと考えていきたいと思います。

「障害をどう捉えているか」
 ご存知のように私は視覚障害者です。視力は0です。要するに目では何も見えていません。こういった状態の方々を一般的には障害者と呼んでいるのではないでしょうか。
 このように自分でいえるようになるまでには、時間がかかりました。15歳で失明したことにより、身体障害者手帳を取りました。それまでも障害者と言われるカテゴリーに入る視力だったのですが日常的に不便がほとんどないため、身体障害者手帳をもっていませんでした。
 しかし、盲学校の高等部に進学したことにより、周囲から障害者なのだという目で見られるようになりました。そのことに対して、反発したいという気持ちがとても強くなりました。つまり、障害(ぼくにとっては見えないということ)を受容(受け入れること)できていなかったのです。

「なぜ障害を拒絶していたのか?」
 それはなぜなのでしょうか。今になって考えてみると2つの理由が考えられます。
 1つ目は、単純にショックだったということです。予想もしていなかった変化に対応できていなかったのです。どこかでいつかは失明してしまうのかも…と思うこともありましたが、「まさか、ぼくの目が見えなくなるなんて…」と思っていたのです。しかし、現実は残酷にも訪れたのです。
 2つ目は自分の中にあった障害者に対する偏見があったからです。恥ずかしながらぼくは中学生のころまで、障害者に対してネガティブなイメージしか持てていなかったことが大きく影響しています。障害者は自分では何もできないといった誤った考えが自分の中にあったのです。そして、目が見えなくなったら、マッサージをすることが仕事になると思い込んでいました。現在でも視覚障害者にとってあんまやマッサージなどの仕事は大切な職業です。ぼくはそのこと以上に選択肢がないということに対して反発していたのです。
 このような状況でしたので、自分が障害者というカテゴリーに入れられることを極端に嫌がっていましたし、自分は違うのだと言い張っていました。

「障害を受容できたのは…」 
 しかし、盲学校高等部に進学すると、状況が変わってきました。中学校までは地元の子どもとして「純一くんは目がみえなくなったのね」という見られ方をしていました。ところが東京では「目が見えない高校生」としか見られず、大多数の中の1人となってしまったのです。
 個性とか自分らしさとか振り返る余地すらない環境がそこにはありました。自暴自棄になりかけた時期でもありました。
 ぼくが障害というものを素直に受け入れられないでいたころ、17歳(高校2年生)の時に続けていた水泳のおかげでバルセロナパラリンピックに出場する機会を得ました。中学時代まででは考えたこともなかった世界の舞台がそこには広がっていました。不思議な話ですが、見えていたときよりも視野が広がったのです。もちろん、実際に見えるわけではありませんから、人生における視野といった方がよいのかもしれません。
 どれだけ視野が広い方も190度ほどでしょう。ぼくは目が見えなくなったことで視野が無限に広がったような気さえしたのです。
 こういった貴重な経験を通して、障害者だからこそ得られた経験というものがあることに気づき、そのことに対して感謝することが増えてきました。それと同時にこういった経験や目が見えないという感覚を1人でも多くの方に伝えていくことが重要なのではないかと考えるようになりました。

「障害は個性の1つ」
 ぼくはパラリンピックでのメダル獲得という体験により、自分自身の中での変化に驚いていました。
 人から障害者なんだと思われても、自分が河合純一でなくなるわけではないということに気付くことができたのです。
 そのことを水泳を例に説明します。
 目が見えなくなったことで泳げなくなったのではなく、まっすぐ泳いだり、壁にぶつかったりするようになっただけで泳ぎそのものができなくなったのではないのです。「見えないからできない」から「見えないけど、どうすればできるか」と発想の転換がなされた瞬間から変わっていったのです。
 障害そのものが個性だとはいえませんが、少なからず自分を構成している一要素となっています。その一部分を拒絶しても何も生まれてはこないのです。
 生きている中ではうまくできないこともあります。しかし、それは視覚障害者だからこそ悩むことなのでしょうか。もちろん、普通に紙に書かれている文字を読むことはぼくにはできません。文字が読める人はたくさんいます。だからといってその人たちは本をたくさん読んでいるわけではないはずです。本を朗読図書で聞きながら内容を理解している視覚障害者もたくさんいます。
 つまり、どういった手段なのかというプロセスが誰もが同じでなければならないのではなく、同じような結果へとつなげていく複数の手段があること、見つけられることが大切なのです。ある計算式にいくつもの途中式があるようにです。
 さらにいえば、人生の答えが1つでないのですから、このプロセス自体も無限に存在していることになります。
様々な条件はあるにせよ、自分自身の人生を主体的に生きていける人々が増えてほしいと強く願っています。
 そして、その1人であり続けたいとぼくは考えています。障害という他人から見ればマイナスにしか見てもらえていないことが自分の構成要素にあるのだと受け止めた瞬間(障害は個性の1つ)、誰もが不完全な側面をもっているという当然のことに気付くことができたのです。だからこそ、それぞれの未熟な面をお互いにカバーしながら生きていける社会や人間関係が重要になってくるのです。それが真の共生につながると考えています。

 次回は真の共生について考えていきたいと思います。

河合純一

河合純一

河合純一かわいじゅんいち

パラリンピック競泳 金メダリスト

生まれつき左目の視力が無く、少しだけ見えていた右目も15歳で完全に光を失いました。それまで見えていたものが全く見えなくなることは中学生の私には大きな衝撃でした。しかし、私には幼い頃からの二つの夢があり…

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