私がシンクロナイズドスイミングと出会ったのは、今から21年前になります。
21年。自分でもまさかこんなに長く競技生活を続けることになるとは思いもよりませんでした。夢を追って歩き続けられたこの月日は、何物にも代え難い最高に幸せな経験でした。これまで支えて下さった多くの方々に、改めて感謝を申し上げます。本当に有り難うございました。
夢の始まりは、21年前の梅雨の季節にさかのぼります。人並みに泳げるようにという母の薦めで、自宅からほんの目と鼻の先にあるスイミングスクールに5歳の頃からなんとなく通い始めました。
当時は練習嫌いでいつも休みたいと母に訴えていたことを思い出します。それでもなんとか辞めることなく過ごしていたある日、クラスの担当コーチに「シンクロのお姉さんが美保ちゃんに、一緒にやってみないかって聞いてるんだけどどうしよっか?」と声をかけられたのです。
シンクロという競技の存在を知らなかった私は、そのコーチについて練習を見学させてもらうことになりました。クラシックバレエなど、美しいものに興味のあった私は、文字通り人間離れした不思議な綺麗さを持つ選手たちの動きにすぐに魅了され、それから1ヶ月後の6月。私は夢への扉を開けたのです。
シンクロスイマーとしての生活は、楽しくてまさに順風満帆のスタートでした。その後の私の人生を預けることになる井村先生や13年後デュエットを組むことになる立花美哉さんとの出会いもこの頃です。井村先生は当時から日本のトップの選手を指導されており、私にとってはまさに雲の上の存在でした。こんにちは、と声をかけて頂いた日には、喜んで帰って母に報告したものでした。
シンクロは女の子同士の競技ですから、多少は勝った負けたのやっかみ大会?はありましたが、両親のこの上なく強力な支えのお陰で、気持ちを強く持ち続けることができました。
そのことでひとつ、今でも心に深く刻み込まれているエピソードがあります。中学3年生の頃、私にとって一番伸び盛りの時期だったのですが、同時に周囲の風当たりが強くなりつつある時期でもありました。
「実るほど 頭の垂れる 稲穂かな」
先生や親から常日頃教えられた謙虚さや周りへの配慮は15歳の私なりにはしていたつもりでした。なのになぜ?と聞いた私に、母は「もっと頑張りなさい。そして突き抜けなさい。」と言ったのです。
これこそが、その後の私を支え続けた言葉です。この言葉を頼りに無我夢中で磨き続けた、視線の先には「オリンピック出場」という夢がありました。
96年、アトランタオリンピック出場。一つ目の夢を叶えたその翌年、新たな夢を抱きます。それが、「井村コーチのもと、立花さんとのデュエットで狙う世界一」でした。こうして私の8年に及ぶ世界一への挑戦は始まったのです。
武田美保たけだみほ
アテネ五輪 シンクロナイズドスイミング 銀メダリスト
アテネ五輪で、立花美哉さんとのデュエットで銀メダルを獲得。また、2001年の世界選手権では金メダルを獲得し、世界の頂点に。オリンピック三大会連続出場し、5つのメダルを獲得。夏季五輪において日本女子歴代…