私は、恐る恐る振り向くと、そこには父が倒れていたのです。今までドライヤーをかけていた父が、出社準備をしていた父が、奇声と共に、鏡にもたれかかれるように、そっと倒れていきました。スロービデオのようにゆっくりと、ゆっくりと、倒れていきました。そして、普段やさしい父から見る事の無い、恐ろしい形相の父に変わっていったのです。
私は慌てて母を呼びました。なんて呼んだのかそこまでは記憶にありません。三母も動揺したことと思います。母は急いで掛り付けの医師に電話をしました。今で言うホームドクターでしょうか。そして、母は1~2分くらいの所に住む父方の伯母を呼びに行きました。母も必死だったと思います。急いでいたので裸足で行ったようでした。私は、一人ぼっちで物凄い形相の父の側にいました。父は唾を「ペっペっ」と吐き、と言っても普通に吐くのではなく、よく「泡を噴く」と言う事を聞きますが、あの状態がきっとそうなんだと思います。「ぺっぺっ」と細かく小さな唾を噴いていました。その様子は、「石鹸のような泡」とは違うんですよ。「ぺっぺっ」と細かく小さな唾を噴いていたのです。
「怖くて怖くて・・・。」 私は、普段見たことの無い父の姿に衝撃を感じていたのでしょう。ただ、「怖い」のひと言でした。そりゃそうですよね。救急医療センターの医師じゃあるまいし・・・。5才の子供ですもんね。独り泣きじゃくり、事の一大事を感じていました。ただ、怖かったという記憶だけが今も鮮明に甦ります。
しばらくして、母が戻り医師が来ました。医師は、血圧を測り首を振りました。「もう、無理だ。それでも、救急車呼ぶかい?」 母は縋る思いでした。救急車が呼ばれ、父と母と私と、市立病院へ運ばれました。父は救急室へ連れて行かれ、普段車なれしていない私は、吐き気をもよおし、外で嘔吐してしました。だから覚えています。「ワカメの味噌汁」
父が処置を受けている間、私だけが中へ入れてもらえません。子供だからでしょう。病院の冷たい廊下で独り淋しく待っていました。立ったり座ったり。こういう時はとても時間が長く感じるものです。心細く独り一生懸命我慢していました。
そうこうしていると、姉が父方の伯父に連れられ病院へ到着しました。と言っても姉も治療室に入れてもらえる訳も無く、二人で廊下で待たされました。長く長く心細い時間が過ぎました。救急室の前なので、その間色々な患者が運ばれてきたのを覚えています。中でも、ストレッチャーに乗せられた女性を覚えています。眼が飛び出し血まみれになった女性でした。5才の私には刺激が強すぎたのでしょう。「ひぇぇ」ってな程、強烈でした。しばらくして、治療室が開き中からその女性が出てきたのです。ストレッチャーは変わらないのですが、先ほどとはかなり違います。そう、眼が、眼が、引っ込んでいました。すっすごいですよねぇ。眼が飛び出ていたんですよ。それが正常になってた。私はその落差に再び、「ひぇぇ」でした。
どのくらい待たされたのでしょう。とても、とても、長かった・・・。しばらくして看護婦に呼ばれました。
「お父さんきれいにしてあげようね。」
5才の私には、何のことか分かりません。多分、姉も分からなかったと思います。私と姉は病室の中へと導かれました。そこには眼を真っ赤にした母と、体に管を入れられた父が横たわっていました。ペニスに管を入れられ、ベッドサイドに垂れ下がったビニールの袋には父の尿が溜まっていました。今まで見た事の無い光景に戸惑っていると、看護婦が言いました。
「お父さんにお水あげようね」
そう言って、割り箸のような棒の先に綿をつけ、水を含ませ唇にそっと当ててあげました。顔も拭いてあげたようにも覚えています。何故か涙が溢れていました。何故だかは分かりません。何も分かりません。ただ、分かっていたのは優しかった父が声をかけても動いてくれない。という事だけでした。
今では遠い遠い記憶の中です。
夜になると、お通夜の為、親族が集まり始めました。当時の私は無邪気なもので、自分の父親が死んだことすらよく理解できず、何故周りの人達が泣いているのか不思議でした。周りの人が泣いているから「私も泣かなくてはいけないんだ。」そんな思いで泣いていました。
父は沢山の思い出をくれました。倒れる前夜も花火をしてくれましたし、風呂も一緒に入りました。
トイレでは「おしっこチャンバラ」をしました。「おしっこチャンバラ」ってご存知ですか?その名の通り、「おしっこでチャンバラ」です。優しくて子煩悩の父でした。倒れた朝は倒れる前まで話をしてくれてました。しかし、人間なんてあっけないものです。一瞬です。一瞬で亡くなってしまいました。私も同じです。一瞬で歩けなくなりました。でも、人間は強いんです。中々死なないものです。私を見れば分かります。
これを読んでいる皆さんの中で、今、死にたいと思っている方、中々死ねないものですよ。自殺して障害でも残ったらその方が悲惨ですよ。あせらずにも死ぬ時は簡単に死ぬものですよ。
翌日、父の葬儀が執り行われました。私は泣きたくても泣けません。当たり前です。父が死んだことすら理解していないのですから・・・。私は一生懸命泣く振りをしました。周囲の人たちは涙を流しています。だから、私も「泣かなければいけないのだ。」という使命で泣く振りをしました。やがて葬儀も終わり、霊柩車に棺が入れられ火葬場に向かいました。火葬炉の前には、何人もの写真が飾られていました。5才の私には初めて見る光景でした。やがて、父の棺を火葬炉に入れる時間になりました。火葬炉の扉が開きます。台車に乗せられ、ゆっくりと父の眠った棺が入れられました。父との最後の別れです。そして、扉が閉められた瞬間、私は初めて心の底から泣き叫びました。
「お父さんを出してぇ!」
そこには、何も分からない5才の男の子の叫び声だけが虚しく響き渡りました。
私と父との生活は5年間というあまりにも短い時間でした。
つづく
濱宮郷詞はまみやさとし
コラムニスト
「何故、自分だけが、寝たきりに・・・」 毎日、死ぬ事ばかり考えていた。 そんな時、あなたと出逢い、あなたがそばに来てくれた時、生きる事に決めたんだ。 あなたが与えてくれた命。目の前には「無限の可能…
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