明治新政府の最高首脳部入り、大阪復興に尽力
1868年1月(慶応3年12月)、王政復古の大号令によって明治新政府が発足し、五代は新政府の最高首脳部を構成する参与という役職に任命された。この役職には明治維新の立役者である公家出身の岩倉具視が就任したほか、薩長など西南有藩の有力藩士も登用された。薩摩藩からは西郷隆盛、大久保利通らが任命されたのに続いて五代が任命されており、新政府がいかに五代を高く評価していたかを示している。
参与に就任した五代は外国事務掛(現在の外務次官級のような立場)に任ぜられた。新政府では随一の海外通であると同時に優れた交渉力を見込まれてのもので、外国との交渉や外国使節の応対などに当たった。当時の新政府はまだ東京遷都の前で、京都にあったが、外交の仕事は港のあった大阪や神戸が中心だったことが、五代が大阪で活躍するきっかけとなった。程なくして大阪府判事にも任命され、さらに初代大阪税関長にも就任する。いわば、外務次官と大阪府知事と税関長を兼ねたような立場である。
この頃、実は大阪は衰退の一途だった。もちろん大阪は江戸と並ぶ大都市ではあったが、260年余続いた江戸時代の末期になると、各藩が大阪に構えていた蔵屋敷が続々と江戸に移動し、明治維新前後の混乱もあって大阪の地盤沈下が進んでいたのだった。このため五代は大阪の商業の立て直しと新しい都市づくりに取り組んだ。
まず手がけたのが大阪港の整備。日本は徳川幕府時代の1859年に諸外国の要求によって横浜など5つの港を開港したが、幕府の方針で大阪は開港の対象から外れていた。これも大阪が立ち遅れる原因の一つとなっていたのだが、明治新政府は1868年(慶応4年/明治元年)に大阪港を開港する方針を打ち出し、これに合わせて五代は大阪港のしゅんせつ、桟橋や埠頭の建設、外国人居留地の整備などを急ピッチで進めた。今日の大阪港の原型はまさに五代が作ったと言えるのである。
近代貨幣制度を確立
大阪が貿易都市として発展するうえで、大きな妨げとなっていたのが貨幣の混乱だった。幕末期の開国に伴う金貨の流出など貨幣の混乱が続き、円滑な貿易の妨げとなっていた。このため五代は貨幣制度の統一や新しい通貨政策、財政政策についてさまざまな提言を行い、その柱として造幣寮(現在の造幣局)を大阪に設置することも進言した。このとき五代は長崎時代からの盟友・グラバーに依頼して、香港造幣局からイギリス製の貨幣製造機一式を購入している。前号で紹介したように、五代は1865年にイギリスに渡ったが、その滞在中にイングランド銀行を訪問し貨幣印刷工場を見学するなど、同国の経済・通貨の諸制度を研究しており、こうした経験や人脈がここでも生かされている。
造幣寮は1871年(明治4年)に完成し、銀貨の製造を開始した。近代貨幣制度のスタートである。その頃には五代はすでに実業家に転身していたが(後述)、民間人として造幣寮の事業に協力を続け、関連するビジネスも手がけている。五代なくしては近代貨幣制度は成立しなかったと言っても過言ではない。
ちなみに、大阪の造幣局と言えば現在「桜の通り抜け」で有名だが、のちに造幣局長となった遠藤謹助という人が発案して始まったものだ。この人は長州藩出身で、実は五代たちと同時期にやはり密航でイギリスに渡り「長州ファイブ」と呼ばれた5人のうちの一人である。ロンドンでは薩摩の留学生たちとも交流しており、五代とも旧知の間柄なのである。不思議な縁である。
また五代は大阪における新政府の事実上のトップとして、もう一つ重要な仕事があった。新政府は財政基盤がなかったため、大阪の豪商たちに献金を要請して回ることだ。ある意味で商人たちに敬遠されそうな役回りだが、そうした付き合いを通じてむしろ五代は商人たちの間でも信頼を高めていったのだった。当時の献金で、いつも鴻池と並んで最高額を献金していたのが加島屋という豪商だ。NHK朝ドラのヒロイン・白岡あさの嫁ぎ先、加野屋のモデルとなった加島屋である。ドラマでの五代とあさの交流はほとんど脚色だそうだが、五代は少なくとも加島屋とかなりの付き合いがあったことは間違いないようである。
実業家に転身、次々と新ビジネス
ところが1869年(明治2年)、五代は会計官権判事として横浜に転勤を命じられる。この時、大阪で留任運動が起き、役所の部下たちは留任嘆願書を政府に提出したという。大阪赴任からわずか1年余りで、五代は大阪にいなくてはならない存在になっていたことと言える。こうした声にほだされたのか、五代はいったんは横浜に赴任したものの、わずか2カ月後に辞表を提出して大阪に戻ったのである。ここから民間実業家としての活動が始まることになる。
実業家となった五代は矢継ぎ早に新規ビジネスを立ち上げていく。大阪に戻って3カ月後に、まず金銀分析所を設立した。当時の貨幣は、幕府や各藩が以前から製造していたものが流通していたが、品質がバラバラで乱造された低品質の貨幣も多かった。そのため五代は貨幣の成分をきちんと分析する機関の必要性を痛感していた。そこで、大阪の両替商・九里正三郎、のちに三井物産を設立した益田孝などの協力を得て、金銀分析所を設立したものだ。同分析所ではヨーロッパの冶金技術を使って貨幣の成分を分析し、不純物を多く含む貨幣は地金にして造幣寮に納入した。この冶金技術も、五代が渡欧中に知識を習得したものだ。同分析所は日本の通貨安定に大きく貢献し、五代は多くの利益を手にすることができた。これが後の事業資金の元手にもなる。
次いで、金銀の分析技術を活用して鉱山経営に乗り出した。1871年(明治4年)に天和銅山(大和国、現・奈良県)を開発したのを皮切りに、相次いで全国各地の鉱山を買収・開発し、数年間で日本最大の鉱山王となった。
現・大阪取引所、現・大阪商工会議所など設立
五代のビジネスはさらに活版印刷、藍製造、製銅、貿易会社、銀行など、多くの分野に広がっていく。この中で特筆すべきなのは、証券取引所など公的機関の設立と交通業だろう。
五代が設立に関与した公的機関だけでも、堂島米商会所、大阪株式取引(のちの大阪証券取引所、現・大阪取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)など数多くある。
大阪には江戸時代から米や金の取引市場があり大阪経済の中心としてにぎわったが、幕末から明治初頭に廃止され、大阪経済衰退の象徴となっていた。そこで、五代は大阪の商人らと協力して米市場の再興をはかり、1876年(明治9年)に堂島米商会所を設立した。次いで、明治政府が株式取引所設立の方針を打ち出したことを受けて、これも鴻池や三井、住友などの豪商らとともに大阪株式取引所を設立した(1878年)。いずれも大阪経済の停滞を打破し新しい発展の中心となることをめざしたものだ。
また同年に設立された大阪商法会議所は、そうした大阪の商人や実業家が助け合い、知恵と力を結集して大阪経済の繁栄をリードするのが目的で、五代はその設立をよびかけ初代会頭に就任した。そして大阪経済の発展のためには人材育成が不可欠として、商学や簿記、英語などを教える大阪商業講習所も設立したのである。
「大阪経済の父」――今日に続く企業群
一方、交通業の事業展開もめざましいものがある。前号で見たように、五代はもともと長崎海軍伝習所で航海術や船舶技術を習得し、海外渡航を3度も経験したうえ、外国船の購入を担当してきたことから、海運や船舶に対する関心と知識はきわめて豊富な人だった。そこでイギリスから帰国直後、グラバーと共同出資で長崎にドックを建設した。主に外国船の修理を目的としたもので、日本で初めての洋式ドックである。完成したのは、五代が大阪で役人生活を送っていた1869年で、のちに明治政府が買い上げ、その後に三菱に払い下げられた。これが後年の三菱重工業長崎造船所のルーツの一つで、昨年に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の一つとなっている。
五代が実業家に転身してから、海への事業意欲は一段と旺盛になる。1882年から1884年にかけて、共同運輸会社、神戸桟橋会社、大阪商船などの海運会社の設立に次々と関与していった。このうち、共同運輸は1885年に三菱商会と合併し日本郵船となるが、その合併も五代があっせんして実現したものだ。大阪商船も昭和になって三井船舶と合併し、のちに現在の商船三井となっており、現在の日本の海運トップ企業2社ともに五代が設立にかかわったことになる。五代と「海」は切っても切れない関係が、今日までつながっているのである。
五代の交通業ビジネスは海運だけではなかった。1884年に大阪・難波と堺を結ぶ鉄道会社、阪堺鉄道を設立している。1885年12月に開業し、実質的は日本で初の私鉄となった(その後、同鉄道は南海電気鉄道に事業譲渡されている)。しかし残念なことに五代は開業を目前にした同年9月に亡くなっていた。享年49歳。
幕末~明治の大激動期を駆け抜けた短い生涯であったが、「大阪経済の父」あるいは「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と称されるほどであった。そのわりに現在では知名度が低かったのは不思議なぐらいだ。彼のような旺盛な企業家精神を知ると、だれでも元気づけられるのではないだろうか。NHKの朝ドラで「五代さま」人気が急上昇したのも頷ける(もちろん、五代を演じた俳優、ディーン・フジオカの魅力によるところが大きいのだろうが)。次号では、私たちが五代から何を学ぶべきかを考える。
五代友厚像 造幣局
岡田晃おかだあきら
大阪経済大学特別招聘教授
1947年、大阪市生まれ。1971年に慶應義塾大学を卒業後、日本経済新聞社へ入社。記者、編集委員を経て、テレビ東京へ異動し、「ワールドビジネスサテライト」のマーケットキャスター、同プロデューサー、テレ…
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