戦国武将・藤堂高虎が生涯仕えた主君は10人を数えます。そのため、歴史上「変節の士」と揶揄され続けてきました。しかし、それは大変な誤解です。
確かに、高虎の処世術は、「士は二君に見(まみ)えず」(=忠義な家臣は、一旦この人が主君と決めたら、生涯他の人には仕えないとする武士の道徳観)という倫理観には反しています。しかし、これは徳川幕府が儒教「朱子学」を国学として以来の倫理観によるものです。
戦国時代というのは、現代によく似ていて、実力主義の世の中でした。自分の夢、すなわち「一国一城の主になりたい」という野望を抱き、実力を発揮できそうな「主君」を求めてさまよう浪人が多数いました。運良く仕官できても、主君とウマが合わなかったり、業績を正当に認めてもらえなかったり、もしくは主君の将来性が望めなかったりしたときには、見限って逃げ去り、新たな主君を求めてどこまでも歩き続ける。そういう時代であり、また高虎もその一人でした。
【”本物の主君”との出逢い】
没落領主の子孫、土豪であった高虎は、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と渡り歩き、21歳のとき5人目にしてやっと羽柴秀長(後の豊臣秀長)という「本物の主君」にめぐり合います。盗賊に襲われていた秀長を助けたのが奇縁で、300石で召抱えられたという説もあります。秀長は豊臣秀吉の異父弟です。
秀長は「秀吉の金庫番」として、資金調達に専念し、様々な合戦についても「自分の立てた手柄はすべて秀吉に、秀吉が失敗したときの罪は自分が負う」といい、”永遠のナンバー2″のポジションを貫きました。高虎は秀長から、「仕事を全うするには、常に仕事を命じた主人の身になることだ」と教えられ、その生き方に感銘し手本にしつつ、賤ケ岳の合戦をはじめ数々の合戦で奮戦します。功名心の強かった高虎は、「野戦型」の猛将として、常に最前線で戦い、実力を発揮し、同時に全身に生傷が絶えなかったといわれています。
【スキルアップし、築城の名人に】
一方で、高虎は秀長の下で「築城術」を学び、スキルアップし、加藤清正、黒田長政と並ぶ「三大築城名人」の一人として名声を博しました。
現代流に言えば、秀長は「ゼネコン」の社長として建築界をリードし、腕の良い大和大工や近江大工が仕えていました。織田信長が安土城を築いた際、高虎は、秀長の下で働いたのをはじめ、出身地である近江(いまの滋賀県)甲良荘の大工をはじめ、石垣普請で知られた近江坂本の穴太(あのう)衆など、多くの職人集団をよくまとめて使い、数々の築城や普請の責任者として実績を上げています。いまで言えば、現場監督です。
【得意の築城術で家康に見込まれる】
高虎は、秀長の紀伊国の一揆平定戦に従い、四国の長宗我部氏と戦い、その戦功により5400石加増され、1万石を得ています。次いで、秀長の和歌山城築城および大和郡山城改修に関与、さらに家康の上洛に際して、秀長の家老として家康の京都屋敷の造営を担当し、自費で門を造営しました。高虎が目を見張るような立派な建物を造ってくれたその配慮に感激した家康は、刀を感謝のしるしとして贈り、「将来、この男は役に立つ」と見込んだそうです。
戦功と得意の築城術とで、確実に信頼を得てキャリアを築いていったのです。
【秀長の死後、秀吉に仕える】
秀長(100万石)が亡くなった後、高虎は秀長の養子・秀保に重臣として仕えました。しかし、秀保も早世したため、剃髪して高野山に上ります。これを知った秀吉が高虎の将才を惜しみ、召還を命じ、還俗した高虎は、秀長の遺産である大和大工、近江大工などの人脈をすべて手に入れて建築界頂点に立ち、伊予板島(いまの宇和島市)7万石の大名として赴任しました。このとき、秀吉から日本丸という軍艦を拝領しています。
秀吉が朝鮮出兵を始めると、熊野水軍と来島水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅させるという武功を挙げ、帰国後に加増されて8万石となりました。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称しています。
【身命を賭して徳川家康に忠義を誓う】
秀吉が死去すると、朝鮮から兵力撤退という大仕事を誰に任せるかが問題となり、五大老の一人・徳川家康からの指名を受け見事に撤退を成し遂げました。さらに、高虎は家康に「身命を賭してお仕えしたい」と自ら申し出て、忠誠の証として弟・正高、次いで松寿夫人、長男・高次、さらに更に重臣たちの子息を人質に差し出しました。これにも家康は、大感激です。高虎は、石田三成や加藤清正、福島正則のような秀吉子飼いの武将ではなかったので、「豊臣家恩顧の忠臣」になれなかったのです。
高虎は外様ながら、家康から全幅の信頼を得て譜代大名格として重用され、「参謀役」を務め、瀬戸内海沿岸にいくつもの城を築き、大阪包囲網を敷いて豊臣恩顧大名を監視、徳川一門のなかでもキリシタンと結ぶ勢力の粛清に腕を振るいます。また、徳川家の重臣として江戸城改築などにも功を挙げ、家康は高虎の才と忠義を高く評価し伊勢津藩主(22万石)に加増移封しています。また、大阪夏の陣でも奮戦し、家康は高虎を賞賛し「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べ、戦後、その功績により32万石に加増しています。
――家康の死後、高虎は二代将軍・秀忠と三代将軍・家光に仕え、この結果、生涯仕えた主君は10人を数えました。ほとんどの主君のもとで大きな功績を挙げ、確実にキャリアアップをしていった藤堂高虎。
彼の生き方は、自らの才能を発揮できる働き場を求め、スキルアップしながら出世街道を上って行こうと志している現代サラリーマンにとって、多くの教訓と示唆を与えてくれています。
板垣英憲いたがきえいけん
政治経済評論家
元毎日新聞記者、政治経済評論家としての長いキャリアをベースに政財官界の裏の裏まで知り尽くした視点から鋭く分析。ユーモアのある分かり易い語り口は聴講者を飽きさせず大好評。
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