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事実上の創業者、幸村の祖父・幸隆~発展させた父・昌幸
NHK大河ドラマ「真田丸」の影響などで真田幸村(信繁)が人気を集めている(本稿では幸村で統一する)。真田家は周囲を有力な戦国大名に囲まれていたため、次々と主君を変えるという苦労を重ねながらも、幸村とその父・昌幸は本拠地・上田城に攻めてきた徳川の大軍を2度も打ち破り、大坂の陣では幸村が華々しく大活躍するという痛快さ。最後には徳川家康の本陣まで突っ込んで家康を追い詰めながらも、ついに力尽きて討ち死にするという、まさに日本人好みの要素をすべて備えていると言ってもよい。しかしそれだけではない。戦国時代のような現在の経済情勢の下で中小企業がいかに生き残っていくか、真田の活躍と生き様はそのモデルケースでもある。
真田家が歴史の記録に登場するようになったのは、幸村の祖父・幸隆の頃からである。信州小県郡(現在の長野県東信地方)の豪族だったが、武田信玄の家臣となり、信玄が信州に勢力を拡大するうえで功績を挙げたとされている。やがて信玄は北信濃まで勢力を伸ばし上杉謙信と対峙するようになるが、真田はその最前線を担うようになる。
幸隆は武田家から見れば外様だが、譜代の家臣と同等に扱われ、信玄の信頼も厚かったという。幸隆はいわば“真田株式会社”の事実上の創業者であり、武田家という大企業の有力子会社の社長のような立場にまで成長したと言えるだろう。
その幸隆の後を継いだのが3男の昌幸である。昌幸は幸隆が築いた真田株式会社をさらに発展させるが、同時にそれは苦難の連続でもあった。昌幸には二人の兄がいたため他家の養子となっていたが、兄は二人とも長篠の戦い(1575年)で討ち死にしてしまった。長篠の戦いは武田軍が織田・徳川連合軍と激突して大敗したことで有名で、武田家は多くの有力家臣を失った。すでに信玄は亡きあと勝頼が当主となっていた武田家は、この敗戦をきっかけに斜陽が始まったのだが、真田家にとっても後継ぎを亡くして最初の危機を迎えることになる。
そこで昌幸が真田家に戻って家督を継いだのだった。昌幸は養子先の家ですでに勝頼に仕えていたが、真田家の当主となって武田家を支える重臣として重きをなしていった。勝頼は武田の勢力巻き返し策として、現在の山梨県韮崎市に新しい城(新府城)の築城に取りかかったが、昌幸がその普請奉行をつとめたという。いかに昌幸が勝頼に信頼され、武田家中で重要な役割を果たしていたかがわかる。この頃までに真田の支配地地域は、もともとの信州小県郡から上野国(現在の群馬県)沼田まで東西に広く拡大していた。
武田家滅亡、本能寺の変……主君を次々と変え危機を乗り切る
しかし新府城が完成して間もなくの1582年、武田勝頼は織田信長軍に攻め込まれて自害、武田家はあっけなく滅亡してしまった。武田という強力な後ろ盾を失って真田は生き残れるのか――ここから昌幸の試練が始まる。主君を滅ぼした織田に抵抗するか、いや恭順して従うか、それとも織田と対立していた上杉や北条など他の大名に従うのか……真田の地元の豪族の間には織田方への帰属には反対する意見もあったようだが、昌幸は京や他国の情報も集め信長に従うことを決断する。当時の信長の勢いを考えれば、この判断は正しかったといえるだろう。昌幸は天下の形勢を的確に読み切っていたのである。ここに、昌幸の生き残り戦略の重要なカギがある。
この時、信長から関東支配を任された滝川一益が厩橋城 (現・群馬県高崎市)に入城。昌幸は信濃と上野国の本領を安堵され、織田への服属の証しとして次男・幸村を人質として滝川一益のもとに送った。幸村は当時15歳(12歳説も)、織田の人質に始まって、そのあとも上杉、豊臣など何度も人質生活を送ることになる。
ともかく織田の傘の下に入って一安心と思いきや、またもや真田に危機が訪れる。わずか3カ月後に織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれてしまったのである。滝川一益は関東を撤退、空白となった旧武田領には東海の徳川、相模の北条、越後の上杉が三つ巴となって進出を図り、信濃・上野は草刈り場の様相を呈してきた。
その一角に位置する真田にとってまさにピンチである。真田単独の力では生き残ることは困難。そこで昌幸は地元の豪族をまとめて盟主的な立場に立ち、そのうえで短期間の間に上杉、北条、徳川と、次々と仕える相手を変えていった。まず上杉が北信濃に進出してきたため、いったん上杉に従ったが、北条が進出してきたため、北条に従った。こうして真田領が蹂躙されるのを防いだのだが、その直後に今度は北条を離れ、徳川方につく。
ここまでの経過は本能寺の変から3カ月間しか経っていない。昌幸の変わり身の早さには驚かされるが、実はただ単に無節操に主人を変えたわけではない。真田の家と領地を守ることを最優先にした結果だったのである。しかも有力大名の間に挟まって右往左往するのではなく、逆に彼らの力を利用するというしたたかさと意地が感じられる。徳川も北条も上杉も真田の力を必要としたからだ。昌幸の本領発揮である。
第1次上田合戦で名声高める
昌幸の意地は、特に沼田城の領有をめぐって大いに発揮された。沼田城は上野国と信濃、越後などを結ぶ北関東の要衝で、軍事的にも重要な拠点だった。そのため古くから争奪戦が繰り広げられ、ようやく真田が手に入れた城だ。しかし本能寺の変の後に北関東情勢が流動化して、再び沼田城をめぐる争奪戦が再燃、北条が沼田城の明け渡しを求めてきた。このことが大きな原因で昌幸は北条と手を切って徳川に従ったが、その北条と徳川の同盟が成立し、徳川も沼田城の明け渡しを要求してくるという事態となった。
昌幸はこれを拒否、徳川とも手を切って再び上杉と手を結んだのだった。つまり昌幸にとって沼田城は、相手がいかに強大な徳川でも北条でも譲れない重要な城だった。これに怒った家康が真田の本拠地となった上田城に攻め込んで来たのが第1次上田合戦(1585年)である。
徳川軍7000人に対して真田軍はわずか2000人だったと伝えられている。ところが真田軍は地の利を生かして徳川軍を狭い城下の一角や城内に誘い込むなどゲリラ的な戦いを展開して徳川軍を翻弄した。その結果、徳川軍は1300人もの戦死者を出したという。これに対し真田軍の戦死者は約40人だったそうだ。徳川軍はついに何の戦果も挙げることなく上田から完全に撤退せざるを得なかった。当時の徳川家康は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対峙し、天下を二分する勢いにあった時期である。その徳川軍を相手に大勝利した真田の名は一躍に全国に広まったのだった。
真田勝利の隠された“秘密”
真田が勝利した要因には、巧みな戦術や真田軍の士気の高さが挙げられるが、上田城の築城そのものにも勝利の秘密が隠されていたようだ。上田城は上田盆地の真ん中、現在のJR上田駅から徒歩10分程度の場所にあるが、ほぼ平地に築城されていて、石垣も少ない。それほど広いわけでもなく、一見すると堅固な城には思えない。ところが南側に回ると断崖絶壁のようになっており、その上に櫓が建っている。断崖絶壁の下には当時は千曲川の支流が流れていたそうだが、流れが激しく、城壁となる崖がしばしば削られたほどだ。それが堀の代わりとなっていた。
南側の下は現在は駐車場や公園になっているが、降りて城を見上げると、崖の下方部には川の流れで削られた跡も残っており、崖は垂直に立っているように見える。敵兵が南側から攻め上がることはまず不可能とわかる。城の北側ももともとあった川や沼を引き込んで堀にしており、自然の地形をうまく取り込んで守りに強い構造にしていたことがうかがえる。
上田城は、徳川の命により上杉への備えとして昌幸が築城したもので、当初は越後から上杉軍が攻めてくることを想定して北側が正面(大手門)となっていた。しかし築城の途中で徳川と手切れとなり上杉側についたため、徳川や北条が攻めてくると予想される東の方角に大手門を変更したという。第1次上田合戦では、まさにその東の方から徳川軍が攻めてきて、大手門付近で激しい戦闘が繰り広げられたのだった。徳川にしてみれば、自分が作らせた城で大損害を与えられたのだから、皮肉なものである。
しかし昌幸は築城開始の時から、いずれ徳川と戦うことも想定していたフシがある。というのは、南側の構造だ。前述のように、城の南側の川が最大の防御線になっているのだが、北からの攻撃への備えが“本命”ならば、千曲川の支流または本流の南側に城を築いて北側の守りを鉄壁にする方が普通ではないだろうか。それを敢えて南側の防御を最強にしたところに、昌幸の深謀遠慮が見えてくる。あらゆる可能性を想定して早くから手を打っておくことは今日の企業経営にとってもきわめて重要なことである。
大名として自立果たした原動力とは
ここで、当時の各戦国大名の勢力関係も見ておく必要がある。第1次上田合戦を前に、昌幸は上杉景勝に従うことを決断するが、その頃の上杉は羽柴秀吉にすでに臣従していた。その秀吉は前年には小牧・長久手の戦いで家康と衝突している。天下獲りをめぐって秀吉と家康がにらみ合っている時期に、家康と手を切って上杉につくということは、事実上秀吉陣営への参加という重大な決断だったのである。これも昌幸の優れた情勢判断を示している。
第1次上田合戦の勝利で名を挙げた昌幸は秀吉からも高く評価され、上杉配下からの独立を認められ、秀吉に従うことになった。ついに大名としての自立を果たしたのである。そして豊臣政権下で真田家もしばらくは安定した時期を過ごすことになる。
さて幸村であるが、上田合戦の直前に真田が上杉に従うことになった際に人質として越後の春日山城に送られ、続いて真田が秀吉の臣下となったことで今度は大阪に送られ豊臣家の人質となった。実は、上田合戦は幸村が上杉の人質として越後にいた時に起きており、幸村自身は上田合戦に参加していなかった可能性が高い(参加説もあり)。
しかし上杉家では客分として扱われ、当主・上杉景勝や家老・直江兼続などと親しく交流を深めた。この経験が上杉家の家訓とも言える「義」を重んじる姿勢などを学び、その後の幸村の生き方に大きな影響を与えたと思われる。大阪では、秀吉のそばに仕え、天下人から多くのことを学んだであろう。人質生活は厳しい環境に置かれていたと推測されるが、その中にあっても多くのことを身につけ、その後に役立てている。どんな苦境に陥っても、そこから何かをつかんで立ち上がることがいかに大事かを、幸村は我々に教えてくれている。 こうしてみると、真田家は数々のピンチに直面しながら、むしろそれをチャンスに変えてきたといえるのではないだろうか。その原動力となったのは、時代の変化を読む目と的確な情勢判断、したたかに生き抜いていく知恵と戦術、そしてたとえば沼田城への意地、言葉を換えれば自分の持つ強みへのこだわり等であろう。現在の中小企業にとっても参考になる生き方である。
真田の名をさらに高めることになる関ヶ原の戦い~大坂の陣については、次号で詳しく見てみよう。
岡田晃おかだあきら
大阪経済大学特別招聘教授
1947年、大阪市生まれ。1971年に慶應義塾大学を卒業後、日本経済新聞社へ入社。記者、編集委員を経て、テレビ東京へ異動し、「ワールドビジネスサテライト」のマーケットキャスター、同プロデューサー、テレ…
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