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2016年08月22日

私のラグビー人生 ②~大学から就職、ラグビーの本当の意味~

歴史に残る一戦と言われる雪の早明戦。プレーしたものにとっては決して褒められる内容ではないが、そこにかける魂は歴史と伝統に包まれ、人間の肉体と精神を含む戦いの極致に近いものがあった。積雪というドラマチックな環境も拍車をかけ、我々プレーヤーの高揚も人間の限界に近いものへと達していた。

その年、雪の早明戦を大敗で終え、明治大学は思わぬ形で大学選手権一回戦負け、そのままシーズンの幕を閉じた。もう一度、対抗戦で負けた早稲田に大学選手権決勝で勝つことばかりを意識し、そのはるか手前の試合で大きな落とし穴にはまる形となった。

「試合」とは「試し合い」と書くが、お互いが練習でその特定の相手と戦うために積み重ねたものを、その相手に試すことである。何事でも、目の前の相手を見ず、その先に対戦する相手にフォーカスを当てているようでは、思わぬ劣勢に立たされたとき、一度浮足立った構えが試合中に戻るところはない。そしてその年、我々が目指した早稲田が大学日本一になり、日本選手権でも社会人を破り真の日本一に輝いた。

私は、雪の早明戦に続き大学選手権の大敗に、それは悲しみと燃え尽き症候群にしばし陥ることとなる。

4年間のラグビー生活を終え、企業でラグビーをプレーする事を決めていたが、数社から来る依頼に戸惑いを感じていた。様々な地域、将来の企業の行方、ラグビーができる環境など。どこのチームも素晴らしいが、どこも正直同じに見えた。それぞれの企業の皆さんからお話をされると、それぞれが良く聞こえ、また、私に合わせて可能性を広げてくれる。

そうこうしているうちに卒業をまもなく迎える3月となり、他の選手たちはおおよそ就職先も決めていた。時間とともに企業の周りの皆さんにもご迷惑をかけることとなり、私自身も焦り始めていた。どこかで自分の意思をはっきりとしないといけない。

そんなある日、「たまには帰っておいでや」と母から一本の電話が入った。上級生になってからは寮生活に楽しさが生まれ、そう考えると2年間ほどもゆっくり実家に戻ることはなかった。久しぶりにじっくりと見た両親は少し老いて、いつも私を叱りつけていたエネルギーも消え、どこか別人のように穏やかな容姿に代わっていた。

あまりラグビーに興味を持たず、私からは恥ずかしいので試合に来るなと言われ続けていた両親は、たまに自宅に戻ってもラグビーの話はほとんどすることはなかった。夕食が半ばを迎えるころ、父が少し下を向きながら「よく頑張ったな、今年の明治はよかったぞ」と少し詰まりながら言った。

「実はお父さんは肝心な時の試合は、高校の時からこっそりと行ってはったんよ」と台所に向かったまま話す母に、つまった胸から湧き出る涙が止まらなくなった。なぜか、「ごめん」としか言葉が出ず、感謝の気持ちよりも迷惑ばかりをかけてきた両親の苦労ばかりが蘇った。しばしの沈黙を経て、高校時代の珍事や大学時代に言えなかったことがすらすらと話せ楽しい時間が過ぎた。帰り際に玄関で靴を履くころ「ニュージーランドにもう一回行ってきたらどうや」と突然父が声をかけた。「お前の基本はあそこにあるのと違うのか。」

就職に悩む私を両親はわかっていた、大学4年を経て実際に私は成長したのだろうかと自分に自信が持てない私の事を。
私は父のアドバイスに、すぐに第二の故郷ニュージーランドに向かうことにした。

世界一の大国は4年経っても何も変わっていなかった。まちの景色、グランドの匂い、週末走るラグビー選手たち。その当時お世話になったホームステイの家族を訪ねると、私が日本で明治大学のキャプテンになっていることを知っていて、家の中には私のその当時の写真の横に、どこで手に入れたのか、「前へ」と書かれた白と紫の扇子が飾ってあった。

どうやら家族は近所の皆さんにも私の活躍を自慢にしていてくれたらしく、到着後夕暮れに向かったバーには、昔の仲間たちも集まり小さなパーティーが開かれた。その当時の懐かしい面々が集まり、当時は未成年で隠れて少量しか飲めなかったお酒を大人たちと堂々と飲めることに、どこか本当の仲間入りができたような喜びに包まれた。

ホームステイ先のその当時13歳であった末っ子がすでに17歳になり、彼はカンタベリー州代表のU20に選出されていた。ちょうどホームで練習と試合があるタイミングに恵まれ、私も練習に参加させてもらうことになった。ニュージーランドは何も変わらぬどころか、ラグビーは驚くほどの進化を遂げ、その当時よりもはるかにロジックでタフなものになっていた。

17歳の彼のこの短期間での成長に、日本の同世代では到底勝てないことを感じさせられた。試合は粗いものの、戦いの凄みは誰もが国の代表オールブラックスを目指し妥協のないものであった。シーズンを通し25試合以上ものこのような試合を戦いぬいていくことのタフさと経験値は、我々の早明戦を毎週行うことをはるかに超えたものであった。私は日本のラグビーが世界に追いつくどころか、世界に益々おいて行かれる現状を目の当たりにした。

ニュージーランドに留学し明治大学に進学を決めたのも、この国で感じたラグビーの本当の意味を日本中の人に伝えるためであった。それは自分が目立つためではなく発言力を持ちニュージーランドがラグビーを真に愛する意味を伝えるためであったことを思いだした。

それはまちづくりや国づくりに意図を置き、強く優しき人間の成長に最も適した経験値を高め、一人では到底生きていけないことを教えてくれる。成長を欲するものには常に逆境を与え、挫ける者には友情と勇気を与える。勝敗よりも戦うことそのものを好きになり、その中で広がる絆を何よりも大切にすることである。

私は神戸製鋼に就職することを帰りの飛行機の中で決めた。日本一に最も近く、その精神を知る人たちが集まるチームへ。そして連覇を続け、ラグビーが日本に真の意味で根付くことの重要性を知ってもらうために。

大西一平

大西一平

大西一平おおにしかずひら

プロラグビーコーチ

1964年生まれ。 大阪工大高で花園優勝。高校卒業後1年間ニュージーランドへラグビー留学。明治大学時代には3年時全国大学選手権ベスト4、4年時にはキャプテンを務め全国大学選手権ベスト8に導く。その後…

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