【軍学者として「知行合一」を教える】
吉田松陰は、毛利藩校「明倫館」の軍学教授でした。生家である杉家から吉田家に養子に入りました。吉田家は代々、藩主に家学である山鹿流軍学を講ずる家柄でした。家禄は、わずか57石6斗という軽輩ながら、それでも学問で仕えた格式高い家柄です。
松陰は、少年時代、叔父・玉木文之進(明治維新後、「萩の乱」の首謀者と見なされ切腹、松陰の妹・お芳が介錯)の講義を受けている際、額の汗を拭ったところ、座敷から庭に吹き飛ばされて、気絶するほど殴られたそうです。なぜ殴られたのかの理由について、叔父は、「勉学というものは、『公』のために行っているのである。汗を拭うのは『私』のためである。講義中は『私』のことを考えてはならない」
と諭したと言われています。
松陰は、叔父の薫陶を受けて、明倫館の「軍学教授」に就任、アメリカへの密航を試みて失敗します。しかし、護送されて萩に帰郷し、私塾・松下村塾で講義しています。松下村塾は、最初吉田松陰の叔父、玉木文之進が天保十三年(一八四二年)自宅の一室で始めました。それを外叔の久保五郎左衛門が引き継ぎ、さらに松陰が受け継いだのでした。
松陰が軍学者として教えたのは、山鹿素行の兵学や陽明学、水戸学(「尊皇」を説く)などでした。陽明学は、「知行合一」(本当に知る、ということは必ず実行を伴うものであるという倫理説)というキーワードで知られています。
中国・明代の王陽明が展開した学問で、朱子学と並ぶ儒学の大潮流を築いています。朱子学と異なり官学ではなかったので、幕府に認められませんでした。日本陽明学派は、中江藤樹を始祖とし、その門から熊沢蕃山、淵岡山という二人の高弟が出ています。
【魂を揺さぶる教育を行う】
松下村塾は、学習にくる者が朝であれ、昼であれ、夜であれ、塾生が来た時が授業の始まりでした。松陰は、「夜深うして灯もえのこる」と言っています。徹夜しながら議論することが、しばしばあったのでしょう。
「昼間といえども疲労して、覚えず眠らるることあり。爾るときは暫時机に伏して一睡し、忽ちさめて復た書を授く」
人間味あふれた松陰の姿がまざまざと目に浮かびます。
幽囚の身の松陰が村塾で講義した期間は、わずか2年10か月でした。教えた塾生は90人ほどにすぎません。足繁く通い、後年まで師の松陰を追慕してやまなかったのは、久坂玄瑞、入江九一、野村和作、吉田稔麿、松浦松洞、前原一誠、伊藤博文、山県有朋といったほとんどが軽卒(※身軽な服装の兵士。また、身分の低い兵士)以下の者でした。中級武士の子弟であった高杉晋作も身分を超えて、松陰の講義に真摯に耳を傾けていたようです。
松陰は、軍学者であるだけでなく、「良き教師」でした。まず、塾生たちにのびのび学ばせました。そのために、松下村塾塾には、厳正な規制というようなものは定められていませんでした。松陰が目指したのは、塾生を率いるというのではなく、塾生相互に親しみ助け合い、尊敬信頼し、互いに魂の扉を開き合わせ、交わらせるという人間教育でした。そして「終生の友を得させる」ことを目指していました。
至誠を貫いた松陰は、門弟たちの魂をゆり動かす教育に徹していました。魂と魂とが通じ合うようにいわば「触媒」の役目をするのが、松陰でした。一口で言えば、人格の修業を柱とし、祉会に有用な人材の育成を眼目とするものです。
【「何のために勉強するのか」】
高杉晋作は安政5年(1858)ごろ、松下村塾に入塾しています。19歳でした。藩校・明倫館で学びながら、何のために学問をするのかに悩み、落第と不登校を繰り返していた晋作は、松陰の講義に強烈に衝撃を的で受け、世の中を動かす学問があることに目覚め、俄然、頭角を現してきたそうです。
松陰の教育は、現代の教育とは根本から違っていました。松陰は「点数」とは無縁のまさに教育本来の機能を果たそうとしました。素質も性格もみな異なっていた20歳前後の青年たちに対して、各人の資質を引き出す教育を行いました。
松陰は、「『俊邁』の才をもつが、『頑質』に災いされて、その優れた『有識』の天分が覆い隠されている」と、晋作の個性を見抜いていました。弟子の一人である前原一誠について、「晋作の『識』、玄瑞の『才』にははるかに及ばないが、『其の人物が完全なる、二子も亦八十(一誠)に及ばさること遠し』」と、前原の人格の円満性、温厚篤実なることを称揚しています。いわく、「勇あり、智あり、誠実人に過ぐ」と鑑定していました。こうした評価に立ち、松陰は、晋作の「識」を発揮させようと腐心します。
松陰は、晋作らに「何のために学ぶのか」と問い、若い情念をぶっつけました。松陰の講義は、常に当時の世界の形勢や日本の実情に立って、内憂外患の危機状況にいかに対処して行動するべきかという強い問題意識に支えられていました。この言葉に門弟たちは、魂をゆり動かされます。晋作も同様に大きな衝撃を受けたようです。
【自ら行動し範を示す】
松陰は、知識のみを叩き込み、「机上の空論」に終始する単なる教師ではありません。そもそも戦争の仕方を教える軍学者でしたから、「孫子の兵法」を究めていました。「孫子の兵法」のなかに「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」(謀攻篇第三)という有名な言葉があります。
世情騒然とするなか、松陰は安政元年(1854)1月14日、アメリカのペリー司令官率いる東インド艦隊の再来にあたり、「国禁を犯してでも、アメリカを見よう」と壮絶な決意をし、海外密航を企てます。3月28日、弟子の金子重之助とともにポーハタン号乗艦に成功したものの、渡航の要請を拒否されたため、自首して縛につき、江戸伝馬町の獄舎に入れられました。
松陰は、いたずらに「尊王攘夷」を叫ぶのではなく、「彼=敵のことをよく知らなければならない。彼を知らず己も知らないのでは、勝負にならない」との思いから、「アメリカ密航」を企てたのでした。文字通り、陽明学の「知行合一」に則り、自ら行動し範を示すという「軍学者」としての基本を実践しようとしたのです。
松陰は安政5年(1857)11月6日、同志17人と血盟して老中・間部詮勝を要撃しようと謀り、願書案文を執政・周布政之助に示し声援を求めます。しかし、周布が松陰の出発を阻止するため藩主に請い厳囚の処置を取ったため、12月5日、野山獄に再投獄され、松下村塾における松陰の教育は終わります。さらに松陰は五か国
条約調印に反対して「攘夷」を主唱したため、幕府の忌憚に触れ、安政6年(1859)6月24日、桜田藩邸の牢に入れられます。そして、大老・井伊直弼の処断により、10月27日正午ごろ、伝馬町の獄舎でついに斬首されてしまいます。松陰は、悲願を果たせないまま、安政の大獄の嵐に飲み込まれたのです。
松陰の思想と行動力は、これらの弟子たちに引き継がれ、晋作が創設した「奇兵隊」は、長州の軍政組織として機能し、長州征伐にやってきた幕府軍を撃破するのに多大の貢献をしました。さらに、晋作の死後も戊辰戦争の総指揮官となった大村益次郎(村田蔵六)、続いて「陸軍の長老」として権威を振るった山県有朋へと継承されていきました。「奇兵隊」には、松陰の精神が貫かれていたと言っても過言ではないでしょう。
板垣英憲いたがきえいけん
政治経済評論家
元毎日新聞記者、政治経済評論家としての長いキャリアをベースに政財官界の裏の裏まで知り尽くした視点から鋭く分析。ユーモアのある分かり易い語り口は聴講者を飽きさせず大好評。
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