【もまれて育ち、しゃべりも達者になった】
勝海舟は文政6(1823)年、貧しい幕臣の家に生まれ、剣術に加えて蘭学を学び、貧窮のどん底で生活費を工面しながら、修得に努めた。文筆に優れていたばかりでなく、江戸っ子たちの間で、もまれて育つうちに、しゃべりも達者になった。
嘉永6(1853)年、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座・阿部正弘は、幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに勝も、「海防意見書」を提出した。
勝の意見書は、阿部正弘の目に止まり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得て、「海防意見書」の説明、すなわち、プレゼンテーションを行い、これが認められて、安政2(1855)年、蕃所翻訳御用を命ぜられる。無役の貧乏旗本から念願の「役入り」を果たし、自ら人生の運を掴むことができたのである。
【アメリカで交渉のテクニックを学ぶ】
間もなく、佐久間象山の影響を受け幕府の長崎海軍伝習所に入門し海軍に開眼。航海術を学び、外国に魅了されて、開国論者となる。万延元(1860)年、幕府の軍艦「咸臨丸」(軍艦奉行・木村摂津守喜毅)の艦長として渡米した。
軍艦奉行の従者として乗り込んだ福沢諭吉は、著書「福翁自伝」のなかで、勝について「ひどい船酔いで終始寝込んでいた」と酷評しているが、ひとたびアメリカに上陸するや、勝は、アメリカの社会制度をつぶさに見聞し、人々の屈託のない人間性や率直に言い分をぶつけ合う習慣などから、交渉のテクニックを学び取った。
【第二次長州征伐の停戦交渉に成功】
この交渉術は、幕府が慶応2年(1866年)8月末の第二次長州征伐の際に行った停戦交渉で、大いに発揮された。
徳川慶喜は、自ら出陣して巻き返すことを宣言したにもかかわらず、小倉城陥落の報に衝撃を受けて、勝に停戦交渉を命じた。勝は単身宮島の談判に臨み、長州の広沢真臣・井上馨と会談して説得に努め、成功して停戦が行われた。
だが、それは時間稼ぎであった。この間、慶喜は、家茂の死を公にしたうえで、朝廷に働きかけ、休戦の御沙汰書を発してもらい、勝がまとめた和議を台無しにしてしまう。しかも、停戦直後から、フランスの支援を受けて、旧式化していた幕府陸軍の軍制改革に着手している。勝は憤慨して御役御免を願い出て、江戸に帰ってしまった。
その後、戊辰戦争では、旧幕府軍の敗色が濃厚となる。しかし、新政府の東征軍は、怒涛の如く江戸に向かって進軍したのではなかった。尺取虫のように少しずつ前進した。進軍費用が枯渇するたびに、東征軍は、京都の三井家に伝令を送り、軍資金を運ばせていたからである。
それでも、東征軍による江戸城総攻撃時々刻々と迫ってきた。
慶喜は上野寛永寺で謹慎中であった。慶応4(1868)年3月9日、護衛役・高橋泥舟の義弟・山岡鉄太郎(鉄舟、精鋭隊頭)に命じて、「助命嘆願」のため駿府まで進撃していた東征大総督府下参謀・西郷隆盛に赴かせることにした。
しかし、山岡は西郷を知らなかったので、まず陸軍総裁・勝海舟の邸を訪問した。勝は山岡とは初対面であった。だが、一目見て人物を評価し、西郷への書状を認め、勝家がかくまっていた薩摩藩士・益満休之助を護衛につけて送り出した。益満は前年、薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家で保護されていた。
【西郷隆盛と交渉し江戸城無血明け渡し】
山岡と益満は駿府の大総督府へ急行し、参謀・西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求めた。西郷は「幕府壊滅には江戸城総攻撃は絶対必要」と考え、総攻撃を3月15日と決定していた。だが、「勝海舟からの使者」と聞いて山岡と会談し、山岡の真摯な態度に感銘して交渉に応じた。西郷は、江戸城総攻撃の回避条件として以下の7箇条を示した。
1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2.江戸城を明け渡すこと。
3.軍艦をすべて引き渡すこと。
4.武器をすべて引き渡すこと。
5.城内の家臣は向島(東京都墨田区)に移って謹慎すること。
6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
山岡は第1条を除く6箇条の受け入れを示し、「第1条のみは絶対に受けられない」と断固拒否し、西郷と問答が続いた。西郷も山岡の立場を理解して折れ、第一条は西郷が預かる形で保留となった。
山岡はこの結果を持って翌10日、江戸へ帰り勝に報告した。西郷も山岡を追うように11日に駿府を発ち、13日には江戸薩摩藩邸に入った。江戸城への総攻撃予定日である15日のわずか2日前であった。
勝は、東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である。新門辰五郎ら市井の友人の伝手を頼り、町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、非人頭の家を自ら回って協力を求めたという。
徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁、陸軍総裁・勝海舟と、東征軍参謀・西郷隆盛(村田新八・桐野利秋らも同席)との江戸開城交渉は、現在の東京都港区田町の薩摩藩江戸藩邸において、3月13日・14日の2回行われた。
交渉のなかで、勝は、
「江戸城と江戸の町に放火する」
と焦土作戦をチラつかせて覚悟のほどを示し、さすがの西郷もこれに屈し、以下の条件で合意した。
1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
2.慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
3.武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
4.城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
5.江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
6.暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。
西郷は、勝と大久保を信頼して、翌日の江戸城総攻撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約し、江戸城無血明け渡しが決定された。勝の得意の交渉術が見事に功を奏した瞬間であった。
なお、西郷が総攻撃を中止した背景には、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。
板垣英憲いたがきえいけん
政治経済評論家
元毎日新聞記者、政治経済評論家としての長いキャリアをベースに政財官界の裏の裏まで知り尽くした視点から鋭く分析。ユーモアのある分かり易い語り口は聴講者を飽きさせず大好評。
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