「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵」――
これは、戦国武将・武田信玄の領国統治の方法を示す有名な言葉です。いかにも武田軍団の結束力の強さを評しているかのように聞こえてきます。しかし、実は、信玄の人心掌握の苦労を歌った逆説的警句だったと言われています。
【父・信虎の”恐怖政治”を追放】
信玄は、青年時から晩年まで、晴信と呼ばれていました。晴信は、戦国時代最強を誇る武田軍団を組織し、統率力に優れた名リーダーであったというイメージが定着してきました。ところが、これとは正反対に、甲斐国では、武将たちが山々に囲まれた狭い盆地ごとに独立した勢力を築いていたので、結束の緩い連合体としての家臣団を一つにまとめて団結させるのは、大変な苦労を必要としたようです。武将たちにとって、上に仰ぐ当主は、御しやすい”ボンボン”の方が都合よいからです。
父・信虎は、「重い罪人も、大した罪の無い者も 同じように成敗された 無行儀であった」(「甲陽軍鑑」)と言われていた横暴な武将で、いわゆる恐怖政治を行っていました。しかし戦国時代は、当主たちも家臣たちから冷徹に選ばれていました。そこで、晴信は、21歳のとき、支持してくれる家臣団に担ぎ上げられて、父を国外に追放します。そのうえで、独立心旺盛な家臣たちをまとめて、領国経営に取り組み、さらに領地拡大から天下を窺う武将に成長していくことになります。
晴信は、上から一方的に命令するような「トップダウン型」のリーダーでなく、家臣団に意見を言わせて、合意を得ながら物事を決めていく「ボトムアップ型」のリーダーだったようです。下からの意思統一を形成し、それをシステム思考により組織統合に結びつけていくやり方です。それでも、内政、外交、そして外征を成功させるには、家臣団を一致団結させて奮戦させていかなければなりません。幸いなことに、晴信は、盟友・ブレーン、スタッフに恵まれていました。これらの人材を前に、組織統制、人事管理に優れた才能を発揮し、やがて猛将揃いの「武田24将」を擁するに至ります。
【合戦を続けることで家臣をまとめる】
晴信は、武田軍団の結束力を強化するための「妙策」を考案しました。それは、間断なく「合戦」を続けることでした。碧眼の軍師・山本勘助の「戦を続ければ家臣たちは結束するはずです」(「甲陽軍鑑」)という進言を受け入れたのです。勘助は「戦い続けて領土を獲得なさいませ。その土地をすべて家臣に与えれば大将を大事にするはずです」(「甲陽軍鑑」)と、いま流に言えば、「成果主義」を勧めました。
また、家臣が成果を上げれば、その都度、褒美を与えています。それもおカネではありません。刀や着物などです。そのために常に、刀や着物などの品物を用意していたようです。現代風に言えば、社長賞や部長賞などの賞を出していた感じでしょう。褒美を与えれば、周りの家臣たちが、羨ましがり、次は自分ももらおうと頑張ります。また失敗しても、減点するのではなく、名誉挽回のチャンスを与えています。
次から次に現れる前面の敵を相手に合戦を続けている限り、内部で争っている暇はありません。勘助は「一に計略、二に布陣、三に情報の見極め、これらがそろえば勝利をおさめることが出来ましょう」(「甲陽軍鑑」)と晴信を勇気づけます。
こうして晴信は、「風林火山」(大江家=毛利家と並ぶ孫子の兵法を継承する家系=源氏の嫡流を示す)の軍旗の下、騎馬軍団を率いて、最大の敵・上杉謙信と川中島で5回遭遇したのをはじめ、戦いに明け暮れる生涯を送っています。これは、臣従しない家臣団をまとめるための策だったのです。激戦中、晴信は、何度も、生命を落しかねない目に遭っています。その都度、家臣たちが身を挺して守ってくれました。晴信は「家臣たちが健気にその命をかけ自分を敵の襲撃から守ってくれた」(「甲陽軍鑑」)と感謝の言葉を残しています。
【自らを律することで忠誠を集める】
晴信は、また山本勘助の「厳しく統制する掟を定めれば、家臣たちはおのずと殿のために忠誠を尽くすでしょう」(「甲陽軍鑑」)の提案を受けて、「甲州法度」を制定し、人治ではなく、「法治」による統治を進めました。晴信自身も、「自分も決まり事を破ったら、相応の処分を受ける」(「甲州法度」)と、厳しく我が身を律していきました。それでも、せっかくまとまりかけた家臣団が派閥分裂の危機に陥り、晴信は、謀反を企てた長男を自害に追い込まざるを得なくなっています。
そうした辛くて長い苦難の道のりを経て、晴信は人心掌握術を学び、それに磨きをかけていきました。そして、川中島合戦の後、出家して「信玄」と名乗るようになります。
家督を継いで30年後、「存命のうちに天下を取り 京に旗を立つ」(「甲陽軍鑑」)と天下取りを決意し、京を目指して、天竜川を南下、元亀3(1572)年12月22日、徳川家康の領内を侵し、浜松城の北西に広がる三方ヶ原の合戦で一丸となり家康軍を撃破し、最強軍団の完成を見るに至ります。その翌年、残念ながら、信玄は志半ばにして病死してしまい、武田家は、織田信長の厳しい追撃に遭い、滅亡してしまいます。
武田信玄が後世に遺したものは、トップ・リーダーに求められる人心掌握術にとって、「上下の信頼感」こそ、絶対に欠かせない必須条件であるということでした。
ちなみに、信玄を最も恐れ、最も尊敬していたのは、かの徳川家康でした。家康は、信長に隠れて武田軍団の遺臣の大半を密かに引き取り、自らの家臣団に加えました。さらに信玄の組織統制、人事管理の方法などを徳川幕府確立の模範として応用しています。
板垣英憲いたがきえいけん
政治経済評論家
元毎日新聞記者、政治経済評論家としての長いキャリアをベースに政財官界の裏の裏まで知り尽くした視点から鋭く分析。ユーモアのある分かり易い語り口は聴講者を飽きさせず大好評。
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