【星雲の志を抱き、少年剣客となる】
「一国一城の主になって見せるゾ」。
戦国時代の若者たちの多くが、星雲の志を抱いていました。現代流に言えば、「社長になるゾ」ということです。二刀流で有名な剣聖・宮本武蔵の同様でした。
天正12年(1584)3月、美作国(現在の岡山県)吉野郡宮本村で父・新免無二斎の二男として生まれ、小刀使いの父から厳しく剣術を鍛えられ、腕を磨き、13歳のとき、播州(兵庫県南西部)平福で有馬喜兵衛に勝ち、武者修行にでかけ、16歳のとき、但馬国(兵庫県北部)で秋山某という兵法者を倒して、少年剣客として知名度を上げました。
このころ、「一国一城の主」を目指すには、将来性のある大名や武将に仕え、合戦に加わり、大将首を数多く上げなくてはなりません。論功行賞を積み重ねて出世し、その末に「城持ち大名」に上り詰めることができたのです。合戦は集団戦、組織戦で行われても、究極の戦闘は、「個人どうし」の決闘になります。合戦で大将首を上げるには、弓や刀、槍などの相当の使い手としての「個人力」が必要不可欠でした。
宮本武蔵は17歳のとき、西軍主将・毛利輝元の下で領主・宇喜多秀家が、徳川家康率いる東軍と対決すると聞いて、雑兵に紛れて、伏見城攻防戦、岐阜城攻め、さらに関が原合戦(慶長5年=1600年9月15日)に加わり、奮戦しました。しかし、結果は、東軍の大勝利、西軍は敗走、宇喜多秀家は八丈島に流され、島で死去してしまいます。武蔵は「負け組」となり、苦難が始まります。
【負け組から日本一の剣豪を目指す】
武功を上げるチャンスを失った武蔵は、「剣術の使い手」として天下一を目指します。京都蓮台寺、一乗寺下り松、三十三間堂で足利将軍家剣術指南・吉岡清十郎、伝七郎、又七郎と勝負して勝ったのをはじめ、槍の宝蔵院胤栄の高弟、伊賀の鎖鎌の達人・宍戸梅軒、江戸の柳生新陰流・大瀬戸隼人、辻風典馬と勝負していずれも勝ち、ついに慶長17年(1612)4月13日午前、下関舟島(後に「厳流島」と呼ばれる)で、燕返しで知られた中条流・佐々木小次郎と試合して勝ち、「天下一の剣豪」の高名を博し、「個人力」によって兵法家の頂点を極めることができました。29歳のときです。
ところが、これだけの実績を上げて仕官できると思っていたのに、どこからも声がかかってきません。戦国時代が終焉し、大名が、「剣術家」を必要としなくなり、就職活動は、終生成功しなかったのです。
【兵法の神髄を明かすよう命ぜられる】
それでも晩年の武蔵は、肥後熊本城主・細川利忠に「客分」、いまでいう政治顧問、相談役、コンサルタントとして招かれ、7人扶持18石に合力米300石を支給されます。熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷を与えられ、常に藩主の相談相手として側に仕え、客分としては破格の待遇を受けていました。武蔵は、ようやく安住の地を得た思いだったでしょう。
主君・細川忠利は、「兵法の神髄」を明らかにするよう武蔵に命じます。武蔵は「兵法三十五箇条」を書き上げますが、主君はこれに満足しません。さらに詳述を求めます。このため武蔵は城外の岩殿山霊岩洞にこもり、座禅瞑想して「五輪書」の執筆に専念します。
【五輪書は武蔵の『反省の書』だった】
武蔵は、「五輪書」のなかで、身分制度ではなく、「職分」としての「士農工商」について、それぞれの生業の違いとともに、「いずれの巻にも拍子の事を専ら書き記す也」と断わり、「士農工商」のいずれの職分においても、「拍子」、つまりリズムが大事であるとわざわざ力説しています。「何ごとにも、拍子というものがあるが、とりわけ『兵法の拍子』は、鍛練なしには身につけることができないものである」と前置きして、武蔵はこう言っています。
「武芸の道についても、弓を射、鉄砲を打ち、馬に乗ることまでも、拍子・調子というものはある。いろいろな芸能についても、拍子を無視してはならない。
形のないものでも拍子はある。武士の身の上で、奉公して栄達する拍子、失脚する拍子、思うようになる拍子、思うようにならぬ拍子がある。
商売の道でも財産家になる拍子、財産家でも破産する拍子、それぞれの道によって拍子の相違がある。物事の発展する拍子と衰える拍子をよく見分けて分別すべきである」
これは、剣術と芸術を通じて、「求道者」としてたどり着いた「究極の境地」であるとともに、世俗に生きる人間としての「処世術の奥義」を示した部分でもあります。
武蔵は、立身出世を目指した世俗の人間としては、人生の失敗者でした。この意味で「五輪書」は、武蔵が自らの一生を振り返って書き記した「反省の書」でもありました。
【養子・伊織を立身出世の『拍子』に乗せる】
自ら実現できなかった望みを実現してくれたのは、養子の宮本伊織でした。武蔵は播州明石藩主・小笠原忠政(後に忠真)から「客分」として逗留を許されていた際、伊織を近習(主君のそば近くに仕える役。近侍)に推挙しています。伊織は、弱冠・20歳で執政職(家老)となり、豊前小倉藩主となった主君に従い、島原の乱に侍大将・惣奉行として出陣、大きな働きをして加増され、四千石の筆頭家老に就任しています。「武士の身の上で、奉公して栄達する拍子、失脚する拍子、思うようになる拍子、思うようにならぬ拍子がある」と説く武蔵が絵に描いたまさにモデルに相応しい立身出世ぶりでした。武蔵は、養子・伊織を立身出世の拍子に乗せるのに成功したのでした。
ところで、主君・細川忠利は、「五輪書」の完成を見届けることなく、寛永18年(1641)4月26日、他界してしまいました。主君の命に応えることのできなかった武蔵も悲嘆に暮れ、無念の思いを抱いたまま、3年後の正保2年(1645)4月19日、瞑目しています。その武蔵は、主君への感謝と報恩の意を示すため、遺骸には甲冑を着せ、棺に入れ、飽田郡五丁手永弓削村の内に葬るよう遺言していました。この村は、藩主が参勤交代で江戸に向う際の通り道の城外れにあります。武蔵は、肥後熊本・細川家を未来永劫、護持すると心に固く決めていたのでしょう。享年61歳でした。
板垣英憲いたがきえいけん
政治経済評論家
元毎日新聞記者、政治経済評論家としての長いキャリアをベースに政財官界の裏の裏まで知り尽くした視点から鋭く分析。ユーモアのある分かり易い語り口は聴講者を飽きさせず大好評。
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