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コラム 政治・経済

2018年03月26日

「明治150年」から学ぶ日本経済再生への5つのヒント

幕末維新期と重なる現在の日本経済

 今年、2018年は明治維新(1868年)からちょうど150年の節目の年にあたる。周知のように、黒船来航によって長い眠りから覚めた日本は明治維新によって西洋技術を導入し短期間で近代化を成し遂げた。日本が戦後に焼け野原からいち早く復興と高度経済成長を果たしたのも、明治期から戦前にかけての経済発展という土台ができていたからこそである。明治維新が今日の日本経済の土台を作ったことを忘れてはならない。

筆者は日本経済新聞とテレビ東京で長年、日本経済をさまざまな角度から取材してそれを報道し解説する仕事を続けてきたが、それを通じて歴史から学ぶことの重要性を強く感じるようになった。日本経済が進むべき方向や経営のあり方を考えるうえで、歴史の教訓から学び、それを生かすことはきわめて重要である。

特に明治維新前後の時代は、現在の日本経済と重なるところが多い。かつて鎖国体制の下で世界から取り残されていた日本が明治維新によって新しい時代を創ったように、現在の日本経済はバブル崩壊以降の長年の低迷の時代から今ようやく脱出しようとする動きが始まっているからだ。日本経済が本格的に復活を遂げるために何が必要か、その中で企業経営者は何をなすべきか、明治維新はそのヒントと指針を我々に与えてくれているのである。

では明治維新から、どのようなヒントと指針を見つけることができるのか。当時の状況を簡単に整理しながら、5つの視点から見てみよう。

黒船来航から明治維新~ピンチをチャンスに変えた

 第1は、ピンチをチャンスに変えることの重要性である。黒船来航は、日本が欧米列強による侵略の危機に直面していることを白日の下にさらした。つまり、日本始まって以来の最大のピンチだったわけだ。しかし当時の人たちはそのピンチを乗り越えて、逆に近代国家に成長させるというチャンスに変えたのだった。

 しかもただやみくもに突っ走ったわけではなかった。実は、ペリー来航前から欧米列強のアジア進出に危機感を抱き、いち早く動き始めていた藩があった。ペリー来航の3年前の1850年、佐賀藩は軍備を増強するため大砲製造のため反射炉の建設に着手し、1852年に完成させた。薩摩藩も1851年に藩主に就任した島津斉彬が反射炉をはじめとする近代化事業をスタートさせた。

 彼らは鎖国下にあっても海外情報の収集を怠らず、的確な情勢分析をもとに独自に近代化を進めたのだった。これに続いて他の有力藩も西洋技術導入による近代化に取り組んでいく。こうした動きが欧米列強の日本侵略を防ぎ、やがて明治維新の原動力となっていったのである。

 今日の日本経済もバブル崩壊、リーマン・ショック、新興国の追い上げなどピンチの連続だったが、それに対応して多くの日本企業は構造改革を進め競争力の回復を図っている。ピンチをどうチャンスに変えるかによって勝負が決まってくると言える。

第2は、グローバル化だ。黒船来航によって日本国内には「外国人を排撃すべし」という攘夷論が沸き立ち、薩摩や長州はその中心となっていた。ところが両藩とも、いつの間にか(に見えるが)攘夷論から開国に転じ、薩長が中心となった明治新政府は徹底的な西洋文明と技術の導入によって近代化を図った。

その転機となったのは、薩英戦争(1863年)と下関戦争(1863~1864年)である。薩英戦争は、薩摩藩の藩士が生麦村(現・横浜市鶴見区)で英国人を殺傷した生麦事件(1862年)への報復として、英国艦隊が鹿児島湾に進入して砲撃し、鹿児島城下は火の海となった。薩摩藩も陸地側から反撃したが、大砲の威力の差は歴然。これによって攘夷など通用しないことを悟った薩摩藩は英国と和睦し、英国から武器や近代技術を導入する路線に転換した。

長州藩も同じだ。攘夷決行と称して下関海峡を通過中の外国商船に陸地から砲撃したが、逆に反撃を食らった。これが下関戦争で、英米仏蘭の4カ国艦隊は下関に上陸し長州藩の砲台を破壊したのだった。これを機に長州藩も講和に踏み切り、攘夷論を事実上捨てたのだった。グローバル路線への転換である。

これによって長州も薩摩も軍事力だけでなく経済力・技術力も高めることができ、明治維新を成功に導くことになる。そして明治になって本格的にグローバル化を推進したことは周知のとおりだ。

現在でも日本の一部にはグローバル化への恐れ、あるいは「守る」という発想が見受けられる。しかし例えば農業などは、日本のおいしくて安全な食品を積極的に輸出していくことによってむしろ成長産業となる可能性がある。従来なら輸出や海外展開など無縁に思われた業界でも、そうした動きが出ている。グローバル化に対して「守る」のではなく「攻める」戦略が成長をもたらすことを明治維新は教えてくれている。

技術立国ニッポン~モノづくりの原点

第3は、明治維新が日本のモノづくりの原点となっていることだ。前述の反射炉建設の際、佐賀藩はオランダ人将校が書いた「鉄製大砲製造法」の本を翻訳し、それだけを頼りに反射炉を建設し大砲製造も成功させている。もちろん当時の日本に反射炉を作ったことのある人どころか、実物を見た人などだれもいない。それにもかかわらず、本だけを頼りに作ってしまったのだ。

それも、単なるモノマネではなかった。反射炉は煉瓦を積み上げて作るのだが、炉内は1500度以上の高温に達するため煉瓦は耐熱性と高品質が必要だった。佐賀藩は有田焼の技術を応用したと言われている。薩摩藩の反射炉建設では薩摩焼の陶工を動員して耐火煉瓦を作ったことがわかっている。

このことは、日本古来の高い技術と西洋の最新技術を組み合わせたことを示している。ここが日本の近代化の特徴であり、今日に至るモノづくりの原点となっているものである。

反射炉はこのほか、長州藩、水戸藩、さらには幕府(伊豆・韮山)などでも建設され、その技術が明治になって官営釜石製鉄所、さらには官営八幡製鉄所へと受け継がれ、近代鉄鋼業の発展へとつながっていく。佐賀藩の反射炉は残念ながら現在残っていないが、薩摩藩の反射炉は基礎の石組みが当時の姿で保存されており、2015年に世界遺産になった「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つに登録されている。

明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業

 

同遺産は幕末から明治にかけて日本の産業発展の跡を示す全国23の資産で構成されており、前述の長州の萩反射炉、韮山反射炉も含まれている。さらに同遺産で特徴的なのは、官営八幡製鉄所の修繕工場(現・新日鉄住金)、三菱長崎造船所(現・三菱重工業長崎造船所)のジャイアントカンチレバークレーン(150㌧吊り)など、稼働中の施設も含まれていることだ。いずれも“超ハードワーク”な施設で、それが100年以上も稼働し続けていることは、日本のモノづくり技術とメンテナンス、オペレーションの水準の高さを物語っている。

高い志とチャレンジ精神~短期間に矢継ぎ早の改革

第4は、大胆な改革である。1868年の明治改元以降、版籍奉還、廃藩置県に始まって、学制発令、徴兵制、廃刀令など、国の制度や仕組みを根本から変える改革を矢継ぎ早に断行、そのうえで明治18年には内閣制度発足、同22年に憲法公布と近代国家の体制を作り上げた。この間、わずか22年である。

しかも、廃藩置県や徴兵制、廃刀令などは武士の特権を取り上げるものである。明治新政府の中心となったのは言うまでもなく武士出身者たちである。いわば自らの身を削って、猛スピードで改革にまい進したのである。そのために反発も強かった。それが一連の不平士族の反乱であり、最大の反乱が西南戦争だったわけだ。その結果、多くの人命が失われたが、新政府は断固として改革のスピードを緩めなかった。

現在の価値観で見れば、多くの死者を出すなど容認できることではないし、その結果できあがった帝国議会や憲法も不十分または問題を含む内容ではあったが、改革を恐れない姿勢と実行力は高く評価すべきだろう。

現代に翻ってみれば、例えば今後22年間で果たしてどれだけの改革が進められるか、心もとないのが実態ではないだろうか。日本経済が本格的に復活するためには、経済をもっと活性化して成長を促すためには、もっともっと改革のペースを上げることが必要だ。さらこれから先、少子高齢化・人口減少を乗り越えていくには既存の社会保障や年金・医療などの制度を抜本的に改革しなければならない。

企業経営の面でもさらなる改革が欠かせない。この間、日本企業は構造改革を進めて業績を回復させ競争力も取り戻しつつある。しかしここで満足できる状況でないことは明らかだ。改革を恐れずに前へ進んでいく姿勢を明治維新から学び取ることができるはずだ。

第5は、明治維新と近代化を成し遂げた先人たちの高い志とチャレンジ精神である。明治維新は西郷隆盛や大久保利通など優れたリーダーによって成し遂げられただけではなかった。そこには数多くの先人たちの努力があったことを見落としてはならない。

前述の佐賀藩の反射炉建設では何度も失敗しうまくいかなかったため、責任者となっていた藩士は切腹を申し出たという。それを藩主が押しとどめ説得して続行させた結果、成功にこぎつけたのだった。

幕末期、長州藩と薩摩藩はそれぞれ藩士を密かに英国に渡航させている。先進国の実情を視察させるとともに西洋の技術や文化を学ばせて藩の近代化に役立てようとの狙いだったが、一般人の海外渡航はまだ禁止されていたので、その禁を犯しての英国行きである。しかも、当時の船舶事情から考えれば生きて帰れないかもしれない。彼らは英国行きの船に乗り込むとき、ちょんまげを切り落とし、刀を置いていったという。大変な覚悟と使命感である。かれらの高い志が明治維新と近代化の原動力となったことは間違いない。

以上のように、明治維新からは学ぶべき点が多い。そして先人たちのこうした努力を知ると、現代の我々も元気づけられる。今こそ明治維新のように、新しい時代を切り開くエネルギーを発揮すべき時だ。

岡田晃

岡田晃

岡田晃おかだあきら

大阪経済大学特別招聘教授

1947年、大阪市生まれ。1971年に慶應義塾大学を卒業後、日本経済新聞社へ入社。記者、編集委員を経て、テレビ東京へ異動し、「ワールドビジネスサテライト」のマーケットキャスター、同プロデューサー、テレ…

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