2020年の東京オリンピックが決まって以来、よく聞かれる質問があります。「7年前はもうオリンピックを意識していましたか?」「子供達が今から目指して7年という期間は間に合うものですか?」という類のものです。私の答えは・・・「YES」です。あくまでも個人の経験ですが、初めて出たアトランタオリンピックの7年前には「オリンピックに出る」と目標を定めていましたし、実際7年後に間に合わせられるよう逆算し準備を進め、出場することが出来ました。
イベントや番組等でご一緒させて頂く他のアスリートの方々は、意外なことにオリンピックを意識し始めたのが出場する2年前だとか、大学生になってからというお話もあって、人によってそれぞれあるんだなぁ、と感じておりますが、今回は私の経験を通して、「どんな風に7年間で目標を達成させる行動計画を立てたのか?」ということを具体的にお話ししてみようと思います。
時系列で考えていたことや、感じていたことを追っていくと・・・
1年目. オリンピックへの出場を決心した瞬間
まさに、1988年のソウルオリンピックで小谷実可子さんのソロ、小谷・田中組のデュエットをテレビで観戦した時です。「オリンピックって凄い規模!凄い歓声!凄い注目度!凄い演技のレベル!」と感動しました。当時、私は小学6年生。「私もあの舞台に立ちたい!」と思うようになりました。
そこから具体的に未来への想像をめぐらします。4年に一度しかめぐってこないオリンピックで次に決まっていた地がバルセロナ。自分の年齢は4年後には高校1年生(16歳)。そのバルセロナに実際に今の自分が間に会うのか?をより現実的な物証を基に考えてみることにしました。そこでまず立ちはだかったのが、同じクラブの大先輩・奥野史子さんの存在。小学生の頃から常にその年齢区分のトップを走られ、中学生から国際大会に出場。高校生で日本代表入り。「バルセロナは奥野が日本のソリストだろう」と早々と名前が挙げられていました。バルセロナに出場が決定となれば奥野さんは20歳の年齢。シンクロは採点競技という特性もあり、様々な大会を経て徐々に「あの選手は逸材だ!」と知名度を上げて行く必要もあるため、あと4年で自分がその知名度と技術レベルに到達するのは非現実的であると判断をしました。そのため、もう少し長い、8年後のオリンピックをゴールとして、目標設定をしてみることにしたのです。
8年後のオリンピックは自身が20歳の年齢でめぐって来ます。その当時、シンクロ選手としての引退時期で最も多かったのが学生卒業の年となるオフシーズン(秋)だったため、単純に今自分より上のランキングにいらっしゃる先輩方のお名前をズラッと書き出し、卒業見込みの年次を調べ、先輩方の持ち味とウィークポイントを把握。それらを全て照らし合わせると、8年後のオリンピックなら本当に狙っても叶う可能性があるのではないかと、希望を見出しました。
2年目. 7年後の開催地が決定して
翌年、バルセロナの次の開催地がアトランタに決定しました。それに加え、シンクロの競技種目がソロ・デュエットではなく、チーム(8人とサブ2人の選抜)競技だけが実施されることに。オリンピックまであと7年。そこからさらに具体的なイメージを持って、今の自分の年齢(中学1年)でやるべきこと、到達しておきたいランキングや技術の達成度を考えてみることにしました。それを考える上で基準となったのが、奥野さんと、またしても同じクラブの先輩で、手・脚が長く美しい「奥野さんの次の日本のトップ」と囁かれていた奥野さんより2歳下の立花美哉さん。奥野さんの辿って行かれたシンクロエリートの道を立花さんもそっくりそのまま進んでおられました。立花さんからさらに2歳下の私は、二人の成績や動き、時間軸を見ながら、自分の目標をさらに明確に設定できるようになりました。
例えば「2年であの難易度の演技の構成で、あの表現力で、あの技術。ならば、今年の試合で私はこれぐらいの演技に挑戦し泳げるように練習をすれば、奥野さん、立花さんと同じ年齢で優勝を狙えるのではないか」など。又、二人の演技を見ることで、もっと自分のアピールポイントを磨く必要があることにも火がつきました。目の前に、オリンピックまでの道のりをトップランナーで走っていらっしゃる先輩がいてくださったことは、目標を立てるときにもより現実的に考えることができたと思います。
そうやって、先輩方の演技をビデオなどで何度も観て、素敵な表現や曲想を上手く生かした難度の高い足技、身体の使い方、高さの出し方、顔の表情の作り方を真似してみたり、出来なければ必死でそれに取り組むうちに、少しずつ自分の課題だった部分にも良い変化を起こせるようになり、前とは違う楽しさを感じ始めました。自分の体や感性を、演じる中で爆発させたり抑えたりというようにコントロールできるようにもなってきたため、練習に対するモチベーションも上がり、アスリートとして次のステージに入ったように思います。分析と目標設定とそれに伴う練習で、実際の競技の成績も狙った通りに優勝できました。
3年目. 順風満帆には行かない思春期の戸惑い
翌年中学2年生のシーズン。中1のオフシーズンに所属クラブを井村シンクロに移籍したこともあり、環境と人間関係の変化に戸惑います。ランキングは順調に上がってはいましたが、クラブの先輩方とうまく馴染めず、無理をし、精神的に疲れを覚えていました。奥野さん、立花さんの道を辿りたいと思い、その目安としていた13、14歳の年齢区分の全国大会で3位に。奥野さんと立花さんは、その区分に上がった年から優勝をしておられたのに、自分は3位でした。ここでより、「何が足りないのか?」をもっと強く深く考えるようになりました。実は、人間関係で抱えていた心の問題を母が気づいてくれ、上手くコミュニケーションを取ってくれたことによって、私はふっ切ることができたのですが、この時期に、シンクロ以外の人間関係の問題で自分自身が委縮したり、恐がっていたりすると、パフォーマンスにもそれが影響することを学びました。
4年目. 海外遠征を経験
中学3年生。日本選手権後の選考会で、目指していた「中学生で海外遠征に選抜される」目標を達成しました。人間関係はまだぎこちないままでしたが、母とのコミュニケーションのおかげで、人間関係の問題の捉え方や、練習や試合への向き合い方を変えたことにより、結果的にパフォーマンスに集中して臨めたことが技術の成長を助けてくれたと 分析しています。ジュニアの世界選手権の遠征では2歳上の立花さんが日本のトップとして、ソロ、デュエット、チームに出場。私はチームの一員として参加。遠征での個人ランキングで日本国内ではまだ勝てたことがなかった先輩を上回ることができ、自信を持てるようになりました。しかし、それに反して帰国後の13、14歳の年齢区分の全国大会で「絶対的勝利で優勝しなくては」と自分に変なプレッシャーを懸けてしまったことと、練習で上手くいかないことがあると、理想通りにいっていない自分に焦りや不安を感じるように。結果、優勝を逃してしまいます。コンスタントに力を発揮する為には、平常心(おごりのない心)でいることがいかに有効で難しいかを学んだ年でした。
5年目. ライバルは他者ではなく、自分自身
高校1年。スポーツ推薦で高校を受験し、奥野さん、立花さんとは学校でも後輩に。奥野さんは予想通り20歳でバルセロナオリンピックにソリストとして出場。ほぼクラブでの練習には参加されず、日本代表として合宿・遠征という生活。立花さんは、オリンピック代表以外のメンバーで編成された日本代表の中で中核を担うポジションに(高校3年生)。私は、得意だった規定の種目で得点を稼ぎ、なんとか14歳~17歳の区分の中でトップのランキングに。しかし、選ばれた14歳~17歳の遠征で、まだルーティン(音楽に合わせて泳ぐ、いわゆる皆さんが目にする)でのスケール感の出し方や伸びやかさが克服できておらず、ルーティンが得意の国内のライバルの出来や成長が気になり、自分の練習どころではない状態に。現地に行くと、得意の規定でも調子が上がらず、結局その国内のライバルとソロの決勝であたりました(1カ国に2エントリー可能で、決勝はそのどちらか上位の方が出場)。悔しい思いはこれまでも経験しましたが、こんなに情けなく、ふがいない感情になったことで「二度と同じ思いをしたくない」と決意。それによって今大会で自分の取り組み方の何がダメだったのかについて気づいたことがありました。試合で成果をあげたいならば、練習のときから自分への高い意識の集中が必要であり、ライバルは他者ではなく内なる自分自身であることを認識した年です。
6年目. プレッシャーに勝つメンタルの強さ
高校2年。これまでの様々な気づきが功を奏したのか、大会の大きい小さいに関わらずコンスタントにいいパフォーマンスができるようになりました。目指すべき動きや、目指すべき感覚に集中することで、外的なプレッシャーを感じることなく過度の緊張も抑えられ、調子の波が無くなってきました。4年前の奥野さん、2年前の立花さんと同じく、このシーズン、ジュニアの世界選手権でソロ・デュエット・チームに出場。しかし、「この大会の時にチームの中で自分がリーダーシップを発揮し、成績もトップを修め、奥野さん、立花さんに続いてメダルを獲って帰って来なければならない」という厳しい条件を考えると、徐々に重圧を感じるように。「やるべきことに集中しなくては」と自分に言い聞かせても、迷いや不安が拭えない心理状態で合宿を積むうち、ストレスからなのか、中耳炎で鼓膜に小さい穴が空くという事態に。最終的な追い込み時期に離脱を余儀なくされたが、なんとかメダルの流れは途切れさせず帰国。奥野さん、立花さんのメンタルの強さを改めて知ることに。
7年目. 日本代表入りは補欠からのスタート
高校3年生。日本代表に選抜されたが、最初は補欠からのスタート。チームメンバーの誰かと変わってもすぐに泳げるように、全部のポジションを憶えて待機。少しのチャンスでも「ものにする」という執念を持たなければ、目標は叶わないということを身を以って体感しました。そして、チームの中でその頃感じ始めたのが”理不尽さ”。同じことをしても、何故だか私だけコーチからの当たりが強く、厳しく思えて理解ができません。今から考えれば、すぐにでも意図的にそうされていたことはわかるのですが、当時は裏に隠されたコーチの意図は汲み取れませんでした。
8年目. オリンピック前年度
大学1年。前年度から日本代表に入ることができて、このままいけばオリンピックに行けるという安心感からなのか、この年の選考会で行なったある規定で回転数を半周多く回り過ぎるという集中力を欠いたミスをして、選抜の順位を一つしか上げることができずに終わってしまいます。強化合宿に入ってからも相変わらず私は一番年下で怒られ役という存在でしたが、「打たれ強さ、メンタルのタフさは才能の一つ。それを乗り越えるときには、きっと皆をも巻き込むパワーで這い上がってくるだろう、とそれを見越してコーチはあなたに言葉を掛けている。そこを期待している。そしてそれが引退後に誰にも負けない経験となってもっと強くなる」と母から励まされ、チームの中のそれぞれの役割を学びました。さらにこの年、エースの奥野さんが電撃引退という事態が起こり、精神的支柱が無くなり不安なまま遠征へ。私達の心身共にコントロールができていないフワフワした状態が演技にも反映されてしまい、来年に迫ったアトランタオリンピックの前哨戦にあたるこの大会で、日本は4位に順位を落とす結果に。
帰国後、この事態を受け、「これまでの選手選抜の手法を変えてでも、さらに適した人材を選んでいかなければ」という名目で、身長の高さや柔軟性のことが重要視されるように。台頭してきたロシアの動きは、流れるように進み、筋肉には柔軟性があり、手脚が長い。私がもっていない要素で選抜されていくという流れに危機感を持ちました。そして初めて自ら志願してコーチに特別練習を申し込み、本当に目標を達成させるときにはどれだけの執念と集中力が必要で、日々の時間の1分1秒を大切にするという意味を知ったのです。その結果、最終選考会では全体の5位で選抜されました。とてつもない安堵感でした。
書き出していけば想像以上に色んな感情が自分の中に渦巻いていて、実に面白く記憶を辿りました。が、結果的に本番ではやり残しや悔いが残るという思いになり、初めてのオリンピックに出場してから同じ年数の8年間を再び選手として過ごすことになります。皆さんにとって何かに繋がる、ヒントになるコラムになったかはわかりませんが、私にとってはこの一つ一つが夢に繋がっていたので、それを思い出すいい機会を頂いたような気がして、また前向きに進んでいきたいと意欲が湧きました。今回はこれにて。
武田美保たけだみほ
アテネ五輪 シンクロナイズドスイミング 銀メダリスト
アテネ五輪で、立花美哉さんとのデュエットで銀メダルを獲得。また、2001年の世界選手権では金メダルを獲得し、世界の頂点に。オリンピック三大会連続出場し、5つのメダルを獲得。夏季五輪において日本女子歴代…
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