週末に、部屋の模様替えをした。すると電話機の後ろから、くしゃくしゃになったファックス用紙が出てきた。まったく覚えがなかった。
それは2007年春。障害者の男性をパートナーに選んだ女性としてある月刊誌の、いわゆるライターさんが取材に来きて書いたものだった。
どうも企画倒れになったらしく雑誌には掲載されなかった。
ライターさんから、記念になればと「ボツ原稿」のファックスが送られてきたらしい。なんとなく読んでしまったぼくは、妻の本心がうっすらと判ったような気がした。いや、それでも謎多き人物には変わりない。そして妻は、いつ女性から母親になっていったのか薄っぺらいファックス用紙に、にじみ出ているようだった。
追伸には、楽しい取材でしたとあった。
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『どんなに辛い経験も「きっと、いつかは笑い話になる」という名言がある。多くの人物を取材していると、この言葉の重みに気づかされる事も多い。この「いつか」というのは生きながらえて最後に得られる答えではないようだ。
待ち合せの駅。中村さんとの初対面の第一印象は、1歳半になる好奇心旺盛
そうな耕太郎クンを抱っこして、そのあまりのヤンチャぶりに困り果てているごく普通のママにしか見えなかった。
ところが彼女の、この数年間に起こった出来事は、まさに「事実は小説よりも奇なり」だった。
年の差が、十三歳も離れている勝雄さんとの結婚に到るまでを聞いてみると、中村さん本人の言葉を借りれば「彼のように、なんの見返りも求めない優しさと、人としての強さを持っている男性と出会ったのは初めてでした。それに車イスだから捕まえやすい気もして、何だかハンターみたいに、もうゲット(結婚)するまでは絶対、誰にも負けない気持ちでいました(笑)。私が幸せになるためには他の誰でもなく、かっちゃんしかいない、って本能みたいなスイッチが入っちゃったんです。いまもその判断に間違いはなかった、そう思ってるんですよ。でも、こんなに亭主関白だとは思わなかったんですけどね」と、にわかには信じがたい話だった。とにかく勝雄さんは驚き、中村さんを諭したという。食事も着替えも出来ない障害者である自分を選らばなくてもと言い続けたそうだ。出会った当時、勝雄さんは念願の作家にはなっていたが、結婚するなど考えてもいなかった。
まして御両親の反対は、火を見るより明らかなのが普通の常識だ。しかし仮に御両親から猛反対されても、中村さんは「きっと大丈夫だと思っていたんです。両親には、かっちゃんの本を読んでもらって、講演を聞いてさえもらえば分かってくれると、妙な確信があったんです。
どんなお笑い芸人よりも、かっちゃんの講演は、すっごく笑えるし最高なんですよ」と言う。そして、中村さんの確信は現実となり、晴れて新婚生活が始まった。
結婚してからの笑い話もたくさん聞いた。ある日の夕食。ブロッコリーが卓の中心に置かれたが、口にすると硬くて食べられない。勝雄さんが顔をしかめて訊くと、中村さんは「えっ、ブロッコリーって、ゆでて食べるモノなの?」
そう真顔で言ったそうだ。
ほかにも無くし物や勘違いは日常茶飯事、結婚したというより中村さんには、勝雄さんがお父さんになってしまった感じだったらしい。
そんな生活の中、中村さんは妊娠に気づく。喜びはひとしおだった。ところが初期からお腹に何となく違和感もあった。初めての事なので、さほどの異常も分からないまま月日が経っていった。そして妊娠八ヶ月目になってすぐ、中村さんは早産の恐れがあり地元の病院へと入院した。
医師からは、よくあるケースだと言われ、中村さんは「入院してみんなが優しいからラッキーぐらいに考えていたんですけどね」と表情を固くした。
そして突然の破水。救急車で大学病院へと運ばれた。急な出来事に、ただ涙が止まらなかった。お腹の子が、どうなっているのか心配でたまらなかった。大切な子が、懸命に生きようとしているのを感じて、なおさら涙があふれた。
駆けつけた勝雄さんと、中村さんに大学病院の医師は「胎児の状態が、どう診ても正常ではありません。ほぼ死産だと思われます」と宣告した。
しかし生命には不可思議な力がある。その数時間後、か細い産声を上げて『大切なあの子』が産まれたんです。すぐにNICU(新生児集中処置室)へと移された。勝雄さんは翌日、すぐに出生届を役所に出した。でも「赤ちゃんにも会えず、かっちゃんが無口になったのが不安でした」と当時を語る。その日のうちに赤ちゃんと対面していた勝雄さんは、いまに命の火が消えそうな我が子に『賢治』と名付けた。
そして二週間後、医師から告知された障害名は、千人に一人のダウン症。障害について詳しすぎる二人には、医師の説明は不要だった。賢治クンは、呼吸さえ機械に助けてもらわなければならないほど重症だった。その病状は一進一退が続き、中村さんは泣きながら母乳をしぼり、NICUに届けるのが日課となっていた。
だが賢治クンは、残念なことに1歳2ヶ月で逝いた。中村さんは「いまでも賢治のことは、すべて覚えています」と凛とした母親の顔になった。何度も生命の危機に陥り、医師からは絶望的な病状を告げられても、その度に愛おしさが増していったと言う。
小さな五体にたくさんの点滴などをされていても、賢治クンは笑顔でいた。
きっと私たちに心配をかけまいとしているようにも見えた。賢治クンについて「あんなに親孝行な子はいないと思います。私の人生観を変えた子です」と語る。現在、やんちゃざかりの耕太郎クンの育児に追いまくられ、つい自分を見失いそうになる時も、賢治クンやNICUで出会った子どもたちの一生懸命に生きている姿を思い出す。
すると、中村さんは「私も、賢治に負けられない! 今日も一日頑張ろう」と思うそうだ。
いま歩き始め、まるで小さな怪獣のように暴れまくる耕太郎クンを追いかけながら中村さんは、勝雄さんの身の回りの手助けにと忙しい日々を過ごしている。最後に「この二人の子どもは、私の大切な宝物です」と言い、その笑顔が印象的だった。そして帰り際、中村宅の表札の中には『賢治(宇宙へと旅行中)』と記されているのに気づいた。
少子化が叫ばれる昨今、母と幼子の姿を見かけると心の底からエールを送りたくなった。そんな親子の光景こそが、未来への希望なのだと思いながら、いつもの取材より軽い足取で、私は家路に着いた。
取材=文、西崎武志(仮名)』
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このファックスに気が付くのまで月日がかかりすぎたが、西崎さんの名刺を探して電話をした。なつかしい取材の日の話をした。そして、またの再会を約束した。
中村勝雄なかむらかつお
小学館ノンフィクション大賞・優秀賞 作家
現在、作家として純文学やエンターテイメント小説、ノンフィクション・異色のバリアフリー論を新聞・雑誌などに発表。重度の脳性マヒ、障害者手帳1級。 <小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞のことばより…
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