先月で、父親が亡くなって15年が過ぎた。
とにかく働き者の父親だった。本人として、どんな人生だったのかは亡くなっているから、その真意を訊くことは出来ない。
父親は無学だが、ぼくのことは自慢の息子だったようだ。
何の理屈もなかったのだろう。ただ、それだけだった。ニュースを見ては、何かにつけて世間のことから政治や経済にいたるまで聞いてくる父親だった。
「かぁくんよぉ。とうちゃんに分かるように教えてくれよ」
それが父親の口癖だった。そして最後の仕事となったタクシー運転手になりたてのころ、ネクタイを結ぶのはぼくの役目で、かっこう良くやってくれよと手が不自由な障害者に、注文してくるのだから面白い父親だった。
常連客だった方から聞いた話によると、わが子のぼくを誇らしげに語っていたという。
うちの子は小児マヒなんだけど何か書いてんだよと嬉しそうに自慢していたと伝えられた。本当に誇らしく、何の負い目もなく楽しそうにぼくのことを語っていたようだ。
父親の意外な一面を知り、何となくホッとしたのを覚えている。
後年、ぼくのデビュー作の本が出版されたとき、お父さんの代わりに知り合いに宣伝するからねと、その常連客の方から電話があった。
「お父さんが生きてらしたら、どんなにか喜んだでしょうね。その代わりに、おばさんがたくさん宣伝してあげるわ」
ふいに父親の大笑いしている顔を思い出した。
わが子が重い障害を持ち、どれほどの悲しさや切なさを味わったのは想像もつかない。
それでも両親にとってぼくは、かけがえのない唯一の希望だったことは間違いない。そして両親は、ほかの兄弟は作らずにすべての愛情をそそいでくれた。
父親が亡くなり今となって、とても話がしたい。
ぼくも父親となって悩むことも多い。
子どもが元気なのは有り難いが、うちの4歳になった耕太郎はどこで覚えてくるのか、驚くほど乱暴な言葉を使う。叱{し}れば激しく泣き出し、今度は敬語もどきの不思議な日本語になる。
父親が生きていたら、どんなアドバイスをしてくれただろう。おじいちゃんとして耕太郎を肩車{かたぐるま}して、言葉づかいを教えたかも知れない。
気がつけば父子三代、見えない絆でつながっている。また子育てに悩んだとき、ぼくはきっと父親を思い出すに違いない。
中村勝雄なかむらかつお
小学館ノンフィクション大賞・優秀賞 作家
現在、作家として純文学やエンターテイメント小説、ノンフィクション・異色のバリアフリー論を新聞・雑誌などに発表。重度の脳性マヒ、障害者手帳1級。 <小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞のことばより…
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