読む講演会Vol.09
2017年01月27日
No.09 大畑大介/“読む講演会”クローズアップパートナー
大畑大介
元ラグビー日本代表
目次
泣き虫の、あかんたれの子どもだった
スポーツ競技で実績を残した選手は、コーチやスタッフとして競技に携わっている方が多いと思うんですが、私の場合は現役時代から比較的、外側に向けて情報を発信する仕事をいただくことが多く、今は講演活動やラグビーワールドカップ2019アンバサダーとしてラグビーを更に多くの人に知ってもらうために活動しています。
今日は「根拠のない自信を信じろ!根拠はおのずとついてくる」という演題ですが、これは実は私がつくった言葉ではありません。私の妻が私に言った言葉なんです。出会ってから20年以上経ちますが、私は、アスリートとしてまだまだ大成する前から、こう言っていたらしいんです。「オレはすげぇ、オレは天才だ、オレは絶対にトップになるから」と。私自身は、そう言うことで自分にプレッシャーをかけていたんですが、彼女からしてみれば、「なんや、この根拠のない自信は?」と思っていたみたいで(笑)。そう言われて、「あ、オレは周りからこんなふうに思われていたんだ」と気づきました。でも、「オレはできるんだ」と、敢えて人に言うことにより自分を追い込むことが、私のひとつのモチベーションを上げる生き方だったんです。
そもそも、どうしてそんなメンタリティを持ったアスリートになったのか?子どもの時からずっとそうだったわけでもないんです。ラグビーと出会ってから、そういう気持ちが少しずつ、少しずつつくられるようになりました。一般的なイメージではラグビーをやっている子は、幼い頃から力強くて腕力があってやんちゃな子、と思われる方が多いと思うんです。でも、私の場合は正反対で、滑り台の上から降りられないと泣いてしまうような泣き虫の子、大阪弁でいう「あかんたれ」の子だったんです。
人と同じことをしたくない少年が、消去法で選んだのがラグビーだった
生まれ育った町は大阪の城東区。当時、今から30年ぐらい前、大阪の小学校の男の子が始めるスポーツは野球でした。応援するのは当然、阪神タイガース。学校の先生も阪神タイガースファンで前日勝てば、翌日黒板にスポーツ紙が張り出されます。幼心に、野球の話で授業が中止になるのが嬉しかったことを覚えています。でも、タイガースが勝ってみんなが喜んでいる姿を見て、そこに気持ちを入れることができない子だったんですね。どちらかというと、タイガースが負けて、みんなが悔しがってる顔を見るほうが好きでした。
そんな人と同じことはできない子でしたが、みんなをこっちに振り向かせたいという気持ちは人一倍ありました。運動能力だけは自信があったので、運動で自分を大きく見せて、みんなに注目されるようになろうと考えました。そこで、父親が学生時代ラグビーをしていたことや、自宅から花園ラグビー場が近かったのもあり、自然とラグビーを始めました。関西はラグビーが盛んでしたから、野球以外のスポーツをしようと思った中で一番身近にあったのがラグビーだったんです。
「カッコイイ、すげえな」と思ってラグビーに進んだわけではなく、消去法での選択。小学校三年生のとき、大阪で一番歴史のあるラグビースクールに通い始めました。部員数も多く、早い子は幼稚園から始めていたりしますから、私がラグビースクールに入ったときは、そこにはもうすでに子供ながらのコミュニティができているわけです。学校の友達ですら、うまく自分を表現して仲間に入れないのが私。初日は、戸惑いの中で時間だけが過ぎ、練習が始まってしまいました。
最初の練習メニューが、グラウンドの端から端まで、「よーいドン」で走るというトレーニングだったのですが、私はチームの誰よりも足が速かったんです。その瞬間、みんなが私に振り向いてくれました。「君、何してたん」とか、「どこから来たん」と話しかけてくれました。そして、ラグビーをすることが、「大畑大介を表現する武器」であり、「自分と他の人をつなぐコミュニケーションツール」になることに気づきました。本当はみんなと仲良くなりたいし、素直になりたい。でも、うまく表現できない。それが、ラグビーをしているときだけ余計なことを考えずに素直なれて、なりたい自分になれるときでした。まさにラグビーに出会えて自分の居場所を見つけることができたんです。
「為せば成る!」という言葉
ラグビーを始めたころの自分は、本当に天才だと思っていました。ボールを持ったら簡単にトライが取れる子どもでした。そんな天才少年が、当然のように日本代表になって世界記録をつくって殿堂入りして、なんてことだったらカッコイイんですが、実際は全く違いました。
現役時代は、ケガとの戦いでした。アキレス腱は両方切っていますし、両肩も手術しているし、指も手術しています。現役の最後は膝もケガをして、合計9回手術しています。それでもあきらめずにプレーし続けて、どんな辛いことがあっても前を向いて頑張ってこれたのは、小学校6年から中学生にかけての、自分自身の中で一番苦しい時期があったからです。その時期を乗り越えてラグビーを続けたからこそ、いろんなことに自分が打ち勝つことが出来たんだと思っています。
それは、成長期による足の痛みでした。まともに走れなくなってしまったんです。右足のくるぶしから始まって、左足のくるぶし、右膝、左膝と徐々に出てきました。男の子にとって中学生の頃は、ちょうど一番多感な時期。自分の持っているものを、持っているもの以上に大きく見せたい頃です。それなのに、足の成長痛により自分の中で武器としていたラグビーが、どんどん小さくなっていきました。ちょっと何かで目立つ子が、成長期に追いつかれ、追い越されると、普通は面白くなくなって、やめてしまうこともよくあります。でも、私の場合はやめなかった。やめなかったと言えば聞こえは良いですが、実際はやめられなかったんです。ボールを持って走ったり、トライをとったりすることが自分にとって楽しかったわけではありません。ラグビーが自分を表現する武器で、ラグビーがまわりと自分をつなぐツールで、ラグビーしているときが、自分のなりたい姿になれる瞬間だったから。どんなに存在が小さくなっても、ラグビーがなくなることが怖かったんです。だから、やめられなかったんです。
そんな一番しんどくて何かを模索している頃、なんとなく頭の中にポンと引っかかった言葉がありました。それが「為せば成る!」です。いい言葉だな、この言葉大事にしたいな、と思いました。と同時に自分は本当に「為せば成る!」と思えるところまでできているのかな、と自問自答してみたんです。そうすると、ラグビーに対して、足が痛いとか、頑張らなくていい理由ばかりを見つけて、頑張れていない自分がいること気づきました。その時どんな状況であれ、自分の中で「為せば成る!」と思えるところまでやってみようと考えたんです。そして今後、人生の分岐点がやってきたとしても、優先順位の一番にラグビーを置いて歩んでいこうと決めたのもこの時でした。
右足に「全国制覇」、左足に「高校日本代表」
まず一つ目の分岐点が、高校進学でした。当然、ラグビーをメインとして進学しようと考えました。しかし、中学生のプレーヤーとしての大畑大介は、全く大したことがありませんでした。子どもの頃からラグビーを始めたので、ラグビーの知識が豊富だったくらい。でも、その知識と身体が結びついて動けるような子ではなかったんです。大阪はラグビーが盛んなので、それなりに活躍していれば、いろんな高校からスカウトの声がかかります。私はどこからも声がかからなかった。逆にいえば、声がかからなかった分、自分で学校を選ぶことができました。それで選んだ学校が東海大仰星高校でした。
東海大仰星といえば、今では全国大会でも優勝するようなラグビーの強豪校になっていますが、当時はまだラグビー界では無名の高校でした。私は9期生。その頃は、全国大会にもまだ一度も出場したことのない、大阪のラグビー勢力図でも中の上くらいの高校でした。でも、これから全国大会出場を目指して強くなっていこうという勢いがあって、まさに自分の成長とリンクできる学校だと感じました。しかし、東海大仰星に進学してラグビー部に入部したときに驚きました。最初の練習で一年生だけで集まったとき、強豪校と同じように、各地域から優れた選手を集めてきていたことがわかったんです。聞いてみると、大阪府選抜や京都府選抜など、新入部員の全員が何かのタイトルを持っていました。唯一、私だけが、何もタイトルを持っていなかったんです。すなわち、私はチームの中で序列が一番下だったんです。
それでも、今は実力はないけれど、卒業するときの目標を設定しようと思いました。一つは「チームの目標」。もうひとつは「個人の目標」。それを定めた上で、目標に対してしっかりと向き合えるよう、ある行動に出たんです。学校生活は真っ白な上履きを履いて過ごすのですが、その上履きの両足の外側、つまり人から見えるようなところに、それぞれ目標を書いたんです。右足には、チームの目標として「全国制覇!」。そして、左足には、個人の目標、「高校日本代表選手!」と。まさに、これも「根拠のない自信」ですよね(笑)。中学時代、地域の選抜にすら入らないような子でしたから、高校生のナンバーワンプレーヤーになるなんて、誰も想像できるわけがない。また当時の東海大仰星は高校代表に選ばれる選手もいなかったし、全国大会にも出たことがないような学校でしたから。例えるなら、偏差値30台の生徒が、「俺、東京大学に受かるから!」っていうような感じですよね。
周囲の誰よりも練習するしかない
目標達成のために、まず目指さないといけないところは、チームのレギュラーになることです。チームで序列が一番下の人間が、レギュラーになるにはどうするか?答えは簡単。誰よりも練習することです。ただ、みんなと同じだけの与えられた練習をしていたのでは、絶対に追いつけない。引き離されてしまう可能性だってある。序列が一番下の人間が他のみんなに追いつき、追い越す唯一の方法は、みんなより練習するしか方法はないのです。しかしながら、ただやみくも練習しても意味がないこともわかっていました。長時間練習するのは、単なる自己満足です。それよりも、自分自身がどういう選手になりたいのか、ということを明確にイメージし、そうなるための努力をしてこそ初めて意味があると思いました。このとき、頭に出てきた映像が、ラグビーを始めた子どもの頃、誰よりも速くグラウンドを走り回っていた自分の姿でした。足が速いときの自分は輝いていた。足が速い選手になろう、と。では、どうすればいいか。筋トレの知識なんかありませんから、足速い=脚力強い=下半身を鍛える、という単純な発想でした。本当に下半身だけ徹底して鍛えました。
チームの練習が終了し、片付けが全部終わり、部員全員が帰った後、一人残り、バーベルを持ち出して来て、それを背負ってひたすらグランドを歩き回りました。真っ暗になってもトレーニングを一人で続けました。最初の頃は筋肉痛で手すりがなければ階段を歩けないような状況でした。それでも、少しでもバーベルが軽くなったと感じたら、どんどん負荷を上げて、というトレーニングを毎日、練習後に一人で続けたんです。その成果は一年後に現れました。高校入学時に50mが7秒00くらいでそれほど速くなかったのが、一年後に測定したときは、5秒08になっていたんです。もしかしたら、この結果は中学生の頃から悩まされていた足の成長痛がなくなったから、天性の足の速さが戻ってきたのかもしれません。でも私は、足が速くなりたいという気持ちをずっと持ち続け、なりたい自分の姿を明確にイメージし、諦めずに挑戦、継続してきたこそ辿り着けた結果だと思いました。このとき初めて、自分が大事にしていた言葉「為せば成る!」が、体現出来たと思えた瞬間でした。
この貴重な経験があったからこそ、その後の自分の人生において、何度も大きな壁にぶつかっても乗り越えて来れたんだと思います。子どもなんて単純です。自分で勝ち得た成功体験が自信につながっていたんです。
チームで序列が一番下の人間が、高校日本代表へ!!
二年生のとき、初めてレギュラーになることができました。一つ上の先輩には、良い選手が多かったこともあって、初めて大阪大会を勝ち抜いて、全国大会に初出場できたんです。これはひとつの喜びでした。チームはベスト8という、初出場ながら一定の評価をもらえるところまで行ったんです。ところが一方で、個人の大畑大介は初戦の20分で負傷退場してしまいました。監督には痛み止めの注射を打ってでも出たいとお願いをしましたが、君にはまだもう一年あるからと、泣く泣く我慢をさせられました。全国大会で活躍するという強い思いがありましたが、そこには辿り着けませんでした。悔しいことでした。
二年生の悔しさを晴らしたいという思いと、上履きの両足の目標を達成すべく日々トレーニングに励んできました。チームとしては前年度全国大会に行ったということもあり、すごく調子が良かったんですが、結果、大阪の予選の準決勝で負けてしまったんです。最後の最後に逆転負けでした。相手は伝統校でしたが、春から練習試合を含めて、楽々勝っていたチームでした。だから、負けないだろうと気の緩みがあったんだと思います。逆に相手は、伝統校としての強いプライドで戦いを挑んできました。その思いに最後、逆転されて負けてしまったんです。一つ目の目標だった全国制覇が、達成できなかった瞬間でした。
もう一つの目標、高校日本代表は、夏、秋、冬と候補合宿があり、ふるい落とされて、最終的に高校日本代表選手が決められます。私は二年生から全国大会に出場した高校のレギュラーだったこともあり、最後の選考合宿まで呼んでもらっていました。ところが、最後の最後の候補合宿で落ちてしまったんです。結局、2つ目の個人の目標も達成できなかったかと落ち込んでいたのですが、しばらくしてある日突然、先生から「ケガ人が出たので繰り上げで呼ばれている、高校日本代表になったぞ」と電話を受けました。入学したとき、誰も信じていなかった高校日本代表になるという目標が、なんと実現したんです。
選択するときは、しんどい方を選べ
次のステージは、大学進学でした。私は何か選択できる立場になったとき、一つ指針にしている言葉があります。父親に教わった言葉です。「AとBという選択肢があるならば、しんどい方を選べ。そうすることによって、大きなものが得られるから」
大学進学にあたって、ラグビーで完全に勝負しようという気持ちになって、自分が本当に大きなものを得られるところに行くのが一番いいと思っていました。それは、しんどい道を選ぶということです。当時、日本で一番練習量が多いと言われていて、誰も行きたがらなかった京都産業大学に行こうと決めました。
そしてここで、大きな出会いがありました。私の二学年上の廣瀬佳司さんです。彼は私よりも身体が小さいにもかかわらず、すでに日本代表に選ばれていました。練習中はチームをリーダーとして引っ張り、日本で一番きついと言われる練習が終わった後で、自分の足りないことを黙々と練習する方でした。ラグビーに対して情熱を持って向き合う人でした。私は監督に「日本代表になりたい」と熱く語っていたので、練習パートナーを廣瀬さんにしてもらえて、代表になるには何が必要か、すぐ近くで学ぶことができました。おかげで、大学三年で同期の誰よりも早く日本代表入りを果たしました。進学時に、京都産業大学という、敢えて“しんどい道”を選んだからこそ、得られた結果だと思っています。
それから10年、日本代表でプレーしました。1999年、2003年のワールドカップに出場させてもらいました。4年に一度のワールドカップで結果を出すことは、自分にとっての大きな目標でしたが、二大会とも一勝もできずに終わってしまいました。悔しさもあり、もう一度チャレンジしたいと、2007年のワールドカップを迎えました。年齢的に考えてもギリギリかな、と感じていたので、このワールドカップにすべてを賭け、ここで自分の現役生活が終われたらいいな、という思いを描きながらプレーしていたんです。
もう身体はボロボロになっていました。1999年のワールドカップでは、それなりのパフォーマンスができましたが、自分の中では悔しい思いしかなかったので、4年間かけて自分自身を成長させるために海外に行ったりもしました。身体が大きくないこともあり、無理をして、更に負荷をかけていたのも事実でした。2000年過ぎから、身体は本当に悲鳴を上げ始めました。現役生活を長く、という思いはなかったので、ムチ打つ状態が続きました。今できる最大限のパフォーマンスをして、自分の満足する結果さえ手に入ればいいと思っていました。状態が悪いながらも、2007年のワールドカップという最後の大舞台に向かっていったんです。
メジャーリーガーからのメールに救われる
2007年のワールドカップでは自分自身、最高のコンディションをつくって、最後の舞台で大暴れしてやろうと思っていました。ところが、2007年の最初の試合で、本当に厳しい出来事が起こりました。アキレス腱を切ってしまったんです。それまでのボロボロの状態を家族はよく知っていました。座薬を入れ、痛み止めを飲んで試合をしていたので、試合が終わったら、動けなくなるんです。肩も状態が悪くて、夜もまともに寝られません。寝返りをうつだけで肩が外れそうになることも何度もありました。でも、家族には言っていたんです。「2007年にすべてが終わるから、とにかく応援してほしい」と。ところが、その年の1月にいきなりアキレス腱が切れてしまった。
アキレス腱を断裂して自宅に戻ってきたときに、父親に言われた一言が本当につらかったんです。「こんなボロボロの身体にしてしまったのは、自分がラグビーを勧めたからだ、こんなスポーツに出会わせて悪かった」と。これは本当にショックでした。私の一番のモチベーションは、私がトライを決めることではなく、私のプレーでまわりの人間が喜んでくれること。特に家族が喜んでくれることが私の原動力でした。なのに、親父にそんな言葉を吐かせてしまって。
私がこのままボロボロの身体で引退しまったら、親父に一生、悲しい思いをさせてしまう、だからなんとしてでも復帰しなければいけない、と思いました。ワールドカップはその年の9月。あと8カ月、とにかく復帰することだけを考えてリハビリに挑みました。その甲斐あって、7月にW杯の最終メンバーに選ばれた時は、みんな喜んでくれました。でも、私の目標はアキレス腱断裂から復帰して代表メンバー入ることではなかった。自分がワールドカップでチームの戦力になってこそ、初めて意味があると思っていました。そこまでコンディションを上げて、試合でチームのために戦力となるパフォーマンスを出さないといけない・・・
ちょうどワールドカップ前に二試合の練習試合が設定されていました。この2試合でうまくコンディションを上げることが出来れば、きっとワールドカップで良いパフォーマンスを出せると確信していました。
そして迎えた、ワールドカップの2週間前にイタリアで行われた、大会までの最後の練習試合。そこで今度は逆のアキレス腱が切れてしまったんです。すべてのものが崩れ去りました。さすがにこのときは、人生で初めて、気持ちが後ろ向きになりました。目の前にあった最後の大舞台であるワールドカップが消えてしまいました。大きなモチベーションを失いました。そして、何より一本目のアキレス腱断裂から復帰して代表に選ばれた時に喜んでくれたみんなに、「なんて報告すればよいのか?」。その日は一晩中泣いていました。
私の高校の同級生には、二人のメジャーリーガーがいます。上原浩治と建山義紀です。私たちは一年生の時のクラスメイトだったんですが、その建山からのメールに、私は救われることになります。イタリアで失意のどん底にいる私に、「日本でどえらい騒ぎになってるぞ」とたった一言のメールでした。建山のメールで、「お前は情報発信をする側の人間なんだぞ」と、気づかせてもらいました。私はアスリートとして両足アキレス腱断裂という大きな事故の中にいるかもしれないけど、世の中にはいろんな形で学校でも職場でも家庭でも様々な壁に苦しんでいる人がいる。私のような情報を発信する人間が、厳しい状況の中でも前を向いて頑張って、もう一度グラウンドに戻ることができれば、多くの人を元気づけられる、ということに気づかせてもらったんです。
このままケガをして、悲しんで終わっている場合ではない、と思いました。とにかく復帰しよう、と思ったのが、この建山のメールでした。それから一年近くかけてリハビリしてグラウンドに戻ったときには、今までとは違った形で、みんなが応援してくれました。良かったな、戻ってきて良かったな、と心から思わせてもらえた瞬間でした。そして、このアキレス腱断裂からグラウンドに戻った、という大きな達成感もあり、そろそろ自分の中でも引退を具体的に考え始めるようになりました。
そして、2010年にアスリートとしては異例の、シーズン前に今期限りの引退を宣言しました。
根拠のない自信!
今日の練習が最後になってもよい、明日が最後の試合でもよい、という気持ちで最後のシーズンに向かいました。ただ、生まれ育った大阪、多くの国際ゲームをした東京、そしてチームの地元・神戸だけは、試合をやりたかったので、この三試合ができたのは嬉しかったですね。最後は、神戸での試合でした。実は、前節の試合で肩を脱臼していて、身体中テーピングだらけでした。試合前日、トレーナーに「ここまで長年プレーできたのは、膝をケガしなかったからですね」と言われました。その時私も、膝だけは大事にして良かった、と思いました。その膝が、次の日の試合で壊れたんです。これはもう終わりだと思いました。最後の最後まで、みんなに迷惑をかけてしまって、それを考えると涙が溢れたんですが、自分の最後に相応しい終わり方かな、と思いました。後悔はありません。本当に現役選手としてラグビーはやり切った充実感でいっぱいでした。
現在は引退して6年になりますが、ワールドカップアンバサダーとして2019年に日本で開催されるラグビーワールドカップの成功を目指すとことに加えて、女子ラグビーの発展も支援させてもらっています。7人制が男女ともにオリンピック競技になりました。私の現役時代は関われなかったオリンピックに携わり、ラグビーも発展させる。その二つをうまくリンクさせて、自分のライフワークにできないか、と考えたとき、まだまだ整備されていない女子ラグビーは面白いと思いました。
これからも自分はどんどん大きくなっていかないといけない。新しいこと、難しいことに挑戦することが、自身の成長につながると考えています。最後まで根拠のない自信を持っているな、と思われるかもしれませんが・・・。人間は死ぬときに、オレの人生は楽しかった、と思えるのが、最高の人生の形だと思っています。それが明日になるのか、5年後になるのか、何十年後になるのかはわかりませんが、納得した人生だったな、と思いたい。そのためにも、今を一生懸命生きないことには先がないと思うんです。自分の人生がどこで終わってもいいように、とにかく、大ぼらふきと思われることがいっぱいあるかもしれないけど、これからも「根拠のない自信」を信じて、自分の中で人生が楽しかった、と思えるよう、頑張っていきたいと思います。
(文:上阪徹)
大畑大介おおはただいすけ
元ラグビー日本代表
小学校3年生からラグビーを始め、東海大仰星高校時代に高校日本代表に選出。京都産業大学へ進み日本代表として活躍後、1998年に神戸製鋼に入社し、日本のトライゲッター、エースとして活躍、世界にその決定力を…
読む講演会|人気記事 TOP5
-
No.02 中野信子/“読む講演会”クローズアップパートナー
中野信子
-
No.14 竹内薫/“読む講演会”クローズアップパートナー
竹内薫
-
No.15 黒川伊保子/“読む講演会”クローズアップパートナ…
黒川伊保子
-
No.20 若林史江 /“読む講演会”クローズアップパートナ…
若林史江
-
No.19 小林さやか /“読む講演会”クローズアップパート…
小林さやか
講演・セミナーの
ご相談は無料です。
業界21年、実績3万件の中で蓄積してきた
講演会のノウハウを丁寧にご案内いたします。
趣旨・目的、聴講対象者、希望講師や
講師のイメージなど、
お決まりの範囲で構いませんので、
お気軽にご連絡ください。