読む講演会Vol.08
2016年11月01日
No.08 野村忠宏/“読む講演会”クローズアップパートナー
野村忠宏
柔道家
目次
強くならなくていい、という柔道の教え
今日はメダルを持ってきています。これを獲った野村本人が出てきた時は、そんなにおお、ってならないんですけど、メダルが出てると、なぜだか、おおってなるんですよね(笑)。
1996年アトランタオリンピック、大学4年生の時に獲得した金メダル。それから2000年シドニーの金メダル。200年、オリンピック発祥の地ギリシャで開催されたアテネオリンピックの金メダル。これは、日本人が獲得した100個目の金メダルでした。大会によって、ほんとにメダルの大きさが違うんですよね。アトランタからシドニー、アテネって、ちょっとずつ小さくなっていって。また北京、ロンドンで、まただんだん大きくなっていって。
20代後半になれば、もうベテラン。30歳ぐらいになってくれば怪我も増えて勝てなくなって、30歳超えたら、もうお前ら勝たれへんからそろそろ引退して指導者なったらどうや、となる。やっぱり30歳ぐらいが、アスリートとして寿命なんですね。そういう中で、オリンピックは4年に一度。4年間ってアスリートにとっては、短いより、とてつもなく長いんです。その4年間で大きな変化があるから。
3つのオリンピックは、それぞれチャレンジが違うんです。柔道という道でのチャレンジは変わらないけども、向き合った時間は決して同じものではありませんでした。常に変化があって、その変化の中でチャンピオンになるための新しい自分を作っていくというチャレンジでした。
3歳から柔道を始めて、40歳まで現役を続けました。祖父が柔道が好きで、奈良県の田舎で米作りをしながら町道場を創設しまして、それがちょうど今年80年になります。今振り返ってラッキーだったな、良かったなと思うのは、祖父が柔道を本当に愛した人だったことです。指導方針も、今は強くならなくていいという感じでした。 子どものうちは、厳しい稽古は必要ない。それより柔道を通して礼儀作法と基本だけを学んで、あとは純粋に柔道を楽しんで欲しい、そして柔道を好きになって欲しい、と。
女の子に負けてしまった中学のデビュー戦
両親もそういう考えを持っていて、「お前は柔道一家に生まれたんだから柔道だけしとけばいい、柔道さえ強くなればそれでいい」という家庭ではありませんでした。だから柔道の他にも野球、サッカー、水泳。いろんなスポーツをやっていたんですね。それ以外にも塾に通っていたり色んな習い事をしました。中学校に進学する時、これからは自分がやって一番楽しいものにしようと思いました。それが柔道でした。それで地元を離れて、天理中学に進学するんです。入った時、身長が140センチ、体重が32キロしかありませんでした。学年で1番2番を争うぐらいにちっちゃかった。
中学校で柔道部に入って、練習を一生懸命頑張って、最初の試合が天理市の市民体育大会でした。そこで、一回戦で女の子に負けちゃったんですね。これが真剣なチャンピオンスポーツとして取り組み始めた柔道のデビュー戦でした。
気持ちを切り替えてチャレンジを続けたんですが、やっぱり勝てない日々でした。努力はしたけど、勝てない。
子どもの私は背負い投げが大好きでした。ただ試合ではなかなか勝てない。練習では、自分よりも強い相手、体の大きな相手の方が多かったですが、練習の中で、ごくたまに自分が大好きな背負い投げで相手を投げることができたんです。そこに喜びを感じて、そこに自分の可能性を感じたんですね。
それが続けられた理由です。そういう思いでずっと頑張ってきた。結局、中学生時代は、県でベスト16ぐらいが最高でした。
悔しさを知り、悔しさを活かすことが大事
天理中学を卒業しまして、天理高校に進学しました。天理高校では父が柔道の先生をしていました。
天理高校に入学した時、父から声を掛けられるんです。兄が天理高校に入った時も、同じように父から声を掛けられました。人の3倍努力する覚悟を持って柔道をやれ。その覚悟がなければ柔道部に入って来るな、と。そんな厳しい言葉を、父は中学卒業したての兄にかけたんです。同じように自分も天理高校に入った時、父に呼ばれました。その時にかけてもらった言葉が、「無理して柔道せんでいいぞ。もうやめていいぞ」でした。自分も今、年を重ねて、息子もいますから、親心って多少はあるつもりです。今振り返ったら、それが父の親心だったんだなって思います。ただ兄と同じように自分にも厳しい声を掛けて欲しいと悔しかったです。
それ以降、柔道を続けて、悔しい思いはいっぱいしました。目標持ちながらチャレンジしてきた。だから目標を持つこと、夢を持つことも、もちろんすごく大事にする。けども、それと同じぐらい、もしくはね、それ以上かもしれないけど、やはり悔しさを知るということと、その悔しさを活かすということ。これがものすごく大事です。
大学4年で世界チャンピオンになれた理由
でも、入って一週間で後悔しました。話は聞いていましたが、本当に厳しかったんです。練習も寮生活も。そして、なかなか勝てませんでした。高校3年生で、初めて県大会で優勝できたんです。
自分は今言った通り、中学で最初のデビュー戦が女の子に負け、高校入る時は、父にもうやめていいぞと言われ、ようやく高校3年生で初めて県大会で優勝したんですね。やっと自分の一つの目標だった県大会で優勝できたから、天理高校を卒業して、天理大学に進学して、柔道を続けることに迷いはありませんでした。天理大学は、天理高校に輪を掛けて強豪、名門で、柔道部員が100名ぐらいいます。全国から日本一を目指す強い選手達が集まってきていた。柔道部の先生も基本的にみんなオリンピックチャンピオン、世界チャンピオン、そういう先生方ばっかりなんです。
大学に入って、最初の試合が、関西学生選手権でした。天理大学の柔道部100名の中で、軽量級、私と同じ階級の選手は大体10名ちょっと。その関西大会に出場するためには、学校内でリーグ戦をして、勝った選手3名ぐらいが出場できました。私は校内予選で何回も負けて、1年生の時は関西大会に出場できませんでした。1年生の時に関西大会に出場できなかった自分が、大学4年生の時にはオリンピックチャンピオンになるんです。それぐらい大学の時というのは大きな変化があったんです。
その大きな変化は、大学2年生の時にやってきました。天理大学に細川伸二という先生がいらっしゃって、ロサンゼルスオリンピックの軽量級の金メダリストなんですね。その細川先生から練習中、呼ばれたんです。「お前はよう頑張ってる。よう頑張ってるけども、お前のその練習じゃ強くならない」と。
振り返ってみると、与えられたメニューをこなしているだけでした。これ以上動けないって思っても、わずか、かすかでも、心と体のエネルギーって残っているんです。心と体のエネルギーを最後振り絞って出し切る。その練習こそが、ほんとに強くなる練習なんです。技術も上げるし、体力も上げる。試合における絶対的な集中力や絶対的な勝負に対しての執念が生まれる。そういう練習を細川先生の言葉から気づかせてもらったんです。
再びチャンピオンになるには、同じことをしてはダメ
そうしたら半年後、全日本の学生チャンピオンになった。大学1年生の時、関西大会すら出場できなかった自分が、大学2年生では関西大会にも出場して、関西大会で勝って、全国大会で優勝したんです。同時にもう一つ要因があるとすれば、子どもの時に自分の心の支えになった背負い投げという技が、大学生になってやっと得意技として試合で通用するようになったことです。まわりには器用な選手はいっぱいいました。いろんな技を器用にこなす。でも、結局いろんな技を器用にこなす選手というのは、上位には行くけど、トップにはなれないんです。自分はその頃に背負い投げがやっと武器になってきて、それで大学4年の時にオリンピックの代表権を得て金メダルを獲ったんです。
1回目のオリンピックは、2回目3回目のオリンピックよりも気持ちは多少楽でした。誰にも期待される選手じゃなかったから。
ただ、そこから大きな変化があったんです。オリンピックの金メダリストになったことです。今までは無名な存在として、ノーマークだった。でもオリンピックで優勝したことで、金メダリストという肩書きを背負ってチャレンジしなくてはいけなくなった。1回目のオリンピックは、ほとんど背負い投げで優勝したんです。そこは研究されますから、自分の柔道を変えていかなきゃいけない。最初にしたことが技の幅を広げることでした。しかも時間を掛けずに技を広げなきゃいけない。いろんなチャレンジをしました。その結果、アトランタの時よりも、明らかに強くなっていきました。
最も苦しかった3度目のチャレンジ
アスリートには寿命があると言いました。20代後半から勝てなくなる。それは現実でした。シドニーの時が25歳。2連覇しました。でも、20代前半ぐらいから、引退の時期は考えていくんです。いつぐらいに引退するか、どういうタイミングで引退しようか、と。自分にとってベストなやめ時、引退の時は、シドニーオリンピックでした。引退には節目があります。大きな節目が4年に一度のオリンピックです。シドニーオリンピックの時に引退しなきゃ、次の引退する節目は、29歳のアテネオリンピックです。
25歳のシドニーの頃は、常識的に考えて30歳前後でオリンピックチャンピオンになるのは、考えられなかった。
でも、2年かけてチャレンジする道を選ぶんです。今しかできないことって何だろう。自分にしかできないことって何だろう、と考えたんですね。引退して指導者になる道も、もちろん素晴らしい。でも、これはまだ先でもなれる。今しかできないのは、現役選手としてのチャレンジでした。そして何より自分にしかできないことがあった。オリンピック3連覇へのチャレンジです。ただ、2年間柔道を休んだブランクは、ものすごく大きい。見えないものにチャレンジする怖さもある。特にチャンピオンになった人間は、負ける姿を見せるのが、ものすごく嫌なんです。でも、そういう自分の気持ちから逃げるんじゃなく、向き合っていこうと現役復帰を決めるんです。
帰国して厳しい練習を再開して、試合で勝てる自分を作っていきました。ところが、出る試合、出る試合、負け続けた。全く勝てなかった。負け続けることによって、そういう柔道ができなくなったんです。負けないための柔道、投げられないための柔道をしようとしていた。腰を曲げ、頭を下げ、逃げるような柔道。これしかできなくなったんです。自分の強さって何だったんだろう。負けることもあったけど、負けることで自分の弱さを改めて知って、その弱さを受け入れて、その弱さを乗り越えるための努力をして、その弱さを乗り越えていった。負けを活かせる人間だったことなんです。その自分が、変わってしまった。試合が終わったあとには、惨めさしかありませんでした。ものすごく苦しい時期でした。初めて柔道して円形脱毛症にもなりました。とことん柔道も嫌いになりました。現役復帰を間違えた選択だと思った時期もあった。それが、アテネオリンピックの1年4カ月ぐらい前でした。
1年後に自分がアテネオリンピックの代表の座を勝ち取るためには何をしなきゃいけないのか、考えました。自分が変えなきゃいけないのは、心でした。負け続けているくせに、どこかに俺は二連覇した野村だ、格好良く勝たなきゃいけないんだ、一本勝ちしなきゃいけないんだという格好つけのプライドがあった。そのプライドが自分の柔道を弱くして、自分の柔道を小さくしていた。ブサイクな柔道してもいい。その代わり、今持ってる力をもう一度出し切ることから始めよう。そこをしないと、俺にはアテネはないな、と思いました。まわりから笑われたし、惨めな目で見られたけども、自分の柔道を一度変えてガムシャラにやり始めたんです。自分の心を変え、改めてチャレンジをしたんです。一年後に強い自分を取り戻すため。そういうチャレンジをすることによって、ちょっとずつまた自分の強さが取り戻せていった。そして一年後に自分はアテネオリンピックの代表の座を勝ち取ったんです。
3連覇の後も、やめる気はまったくしなかった
アテネオリンピックは2004年の夏。アテネの舞台に立った時、もう29歳でした。多くの怪我も抱えていました。体力的には衰えている部分もあった。でも、負ける気はしなかったんです。シドニーオリンピックとアテネオリンピックの野村、どっちが強いか。今冷静な目で見たら、圧倒的に強いのはシドニーです。でも、その時不思議な感覚があって、シドニーの時よりもアテネの時の方が強い柔道ができています。それまでの苦しみが大きな自信になっていた。自信は、伝わるんです。例えば柔道以外の競技を見ていても、勝てそうな選手とか、この選手いつもと違うな、ちょっと不安そうだって、見ててわかるじゃないですか。そういうものって伝わっていくんです。オリンピックの3連覇、それぞれ大きな喜びはあるんですけども、やはり自分が見てきた世界、乗り越えたものを考えた時には、このアテネオリンピックは、自分にとってものすごく重たいメダルになりました。
30代中盤ぐらいになった時には、もう自分は世界一になれる選手じゃないと自覚しました。それぐらい怪我も増えたし、自分の弱さも感じるようになった。その弱さは受け入れたけど、結局それでも、今まで柔道にかけてきた時間は本物、そして磨いてきた技も本物。だから体力的な体の部分は落ちてきたけど、この落ちてきた体の中で磨いてきた本物の技術を上手く融合させて、今自分でできる最高の柔道を作り上げたい。それで勝負していきたい、という気持ちは変わらなかったです。
自分自身のために、一歩前に出られる人間に
若い選手によく言うんです。目標がある以上、努力するのは当たり前。世界中の人間、目標持ってる人間は努力している。だから努力を認めて欲しいとか、努力を評価して欲しいというのは間違いです。努力するのは当たり前。そういう世界です。その中でプロなんだから、結果を出した人間が初めて認めてもらえる。だからプロセスに重きを置くんじゃなく、あくまでも結果を出すために何をしなきゃいけないのかというのを考えなきゃいけない。正直、自分は最後は勝てることが少なかったから、プロとしては失格かもしれない。ただ勝負に対しての甘さというのは、自分にはなかったと思います。そういう自分の経験を伝えながら、8月に引退してから、リオオリンピックのキャスターとしての仕事もしました。あとは海外に柔道を教えに行ったりもしています。
フランスにも教えに行きました。日本の柔道人口は15万人と言われていますが、フランスは60万人と言われています。日本の4倍。そのフランス人の大半は、子どもが柔道をしているんです。なんでこんなに子どもが柔道しているのか聞いたところ、フランスは、いろんな人種がいるんですね。宗教とか文化とか様々なんです。だから学校教育の中で、日本でいう道徳などの人間教育ができないらしいんです、宗教・文化の違いがあって。その部分を担っているのが、町道場なんです。道場に柔道着で来て、畳に上がれば、宗教も、年齢も、性別も、皮膚の色も、何も関係ない。畳に上がればみんな一緒。その中で柔道を通して、教育的な部分を学んでいく。「私達は柔道を信頼しているんです」と言われました。それだけ柔道が、フランスで受け入れられているんです。
嬉しかった。やはりプロの世界は勝つのも大事。でも、最終的に一番大事なのは、信頼されるということなんだと思いました。私も今まで競技者として一筋でやってきたから、信頼される人間かどうかわかりません。これからまだまだ学んでいかなきゃいけないことがいっぱいあるし、変わっていかなきゃいけない、成長しなきゃいけない部分もいっぱいありますが、信頼される人間であらなきゃいけないと思いました。そして自分を高めていく、新しい自分を作っていくために、どんどんチャレンジしていかなきゃいけない。そう思っています。
時には立ち止まることも必要です。時には後ろを向くことも必要です。でも、最後は自分自身のために、一歩前に出られる人間でありましょう。そういう気持ちで頑張っていきましょう。今日はどうもありがとうございました。
(文:上阪徹)
野村忠宏のむらただひろ
柔道家
1974年12月10日生まれ奈良県出身の柔道家。七段。 祖父は柔道場「豊徳館野村柔道場」館長、父は天理高校柔道部元監 督という柔道一家に育つ。1996年アトランタオリンピック、2000年 シドニー…
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